この建物には、本当に「日本画」がよく似合う。この展覧会では京都市美術館がここ十年間に収集した作品―昭和初期に描かれたものから近年の作まで―が時代を追って展示されている。その中での日本画は、「近代」と「現代」の連続性、非連続性が非常に曖昧であるように思われた 。それがこの場に由来するのか、「日本画」の特性によるものなのか。それとも、「近代」・「現代」という歴史認識がそのうちに孕む理由によるのかよく分からない。ただ、「日本画とは何か」を考えるということは「近代・現代日本画」に統一性を予測することに抗うことであり、そのためには「絵画」の問題として個々の作品を分析することが重要だろう。 曖昧だと感じさせたものは栖鳳や桜谷、岩倉寿、小嶋悠司への連続性であり、そこに京都の「日本画」と言いたくなるものの存在を強く感じる。それは、加藤一雄なら「思弁性の翳」というかもしれない連続性である。
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