「岡村桂三郎」展
神内有理 

「岡村桂三郎」展(2005年2月21日〜3月5日 於小林画廊)

先日、「工芸−歴史と現在」というシンポジウムへ行った(2005年2月26・27日、於東京都現代美術館)。「工芸」というジャンルは近代に制度的に作られたものに過ぎない−といったお馴染の議論が交わされた。つまりは近代批判のネタとしての「工芸」。「枠組み」の無効を唱えながら、新たに別の枠組みを創出する。問題なのは、その方向が上位概念を設定してそこに組み込ませるか、下位概念を捻出して差別化を図るかどちらかに吸収されてしまうことだ。どちらにしても既存の秩序の補強となる。二年前の「日本画」シンポジウムと同じだ(2003年3月22・23日、於神奈川県民ホール。記録集として『「日本画」内と外のあいだで』(ブリュッケ))。「工芸」も「日本画」も、「枠組みを越えるという枠組み」にはまり込んでしまっているのか。必要なのは、再構築すること、その方向を模索すること、なはず。
さて、岡村桂三郎展である。近年目覚しい活躍を見せる画家で、使用する素材からカテゴリー的には「日本画」に括られる。今回の主題は「白象」。岡村は仏教的なモチーフを手がけることが多い。「白象」という題材は、普賢菩薩を連想させる。四枚のパネルに頭部を四体つき合わした異形な象。その体表を無数の鱗が覆う。屏風状に立てられると、鑑賞者は中央二頭の象に真っ向睨まれる形になる。基底となるのは焼き色をつけた杉板に白土と黄土を塗り重ねたパネルで、象の輪郭も鱗もそこに刻まれて現れる。天井に届きそうなほど巨大な画面でありながら、描かれるのは象の一部でしかなく全貌は明らかではない。律儀で力強い技法、彫り、抉り出して出来るディテールが象の象徴する巨大な何ものかの気配を醸し出す。一枚の絵が、宗教や歴史みたいなものをひっくるめて静かに迫ってくる。
岡村は単純な「日本画」再構築へは向わない(例えば村上隆のようなやり方)。「あなたは日本画家かと問われれば、「はい」「いいえ」です」 と彼は言う。背反する二つを同時に引き受けようとする態度。「僕の気持ちは、そういうところから、もっと別のところへ行ってしまっているのかもしれません」 という議論そのものに対する突き放し。彼は依然として「日本画」に対する「保留」を解除してはいない。与えられた着地点を素通りして、ただ、過去の「日本美術」に感じた魅力を手放さず、ジャンル無効の大海原を泳ぎ続ける。この人にはそれだけの体力がある。