アルカサバ・シアター「壁−占領下の物語」
丸田真吾 

声・身体のリアリティ  アルカサバ・シアター「壁−占領下の物語」

 屹立する7枚の巨大な壁、その下に佇む7人の男女。パレスチナの劇団アルカサバ・シアターの「壁−占領下の物語」(作・演出:ジョージ・イブラヒム)は、「テロリストの侵入を防ぐ」という名目でイスラエルが建設を進めている「分離壁」により分断され閉鎖されてしまったパレスチナ社会の物語。先生になることを夢見る娘、アラブ馬とともに海外脱出を願う男、難民キャンプを渡り歩きながら芝居に打ち込む男、ブティックの女店主、亡くなった父を先祖の墓に埋葬したい男など、彼らの夢や願い、生活は壁の出現で壊され、失われていく。そのエピソードは厳しく辛い体験でありながら思ったほどに重くならないのは、民族音楽や踊りがうまく採り入れられていたこともあるが、俳優たちの語りによるところが大きい。演出のイブラハムはモノローグを多用して俳優たちに訴えるのではなく、語ることを要求する。その語る声は、アラビア語がわからない私にも共感の扉を開く。日本語字幕が的確だったのかもしれない。しかし何よりその言葉を伝える声に、そして声を発する身体にリアリティがある。厳しい「壁」という現実に向き合い生活してきた身体のリアリティがこの舞台を支える。
 椿昇の舞台美術も素晴らしい。高さ6メートルに及ぶ7枚の巨大な壁はそれぞれ俳優の手で自在に動かすことができ、場面ごとに様々な表情を見せる。この壁が舞台上に存在し続けるところにパレスチナの窒息がある。と同時に観客の目の前で壁が動くということに、絶望的に絶対的な存在の壁も動く可能性、希望を読みとることができる。その点でこの動く壁は極めて政治的なものだと言えるだろう。
 この舞台には生きることが政治に抜き差しならないほどがんじがらめにされてしまった不幸と絶望、そしてそこからの希望がある。それは生きることと政治がまったく切り離されてしまったかに見える日本の堕落を逆照射する。(3月11日、パークタワーホール所見)