日展 100年展
中野志保 

国立新美術館で開催中の「日展 100年展」(http://nitten100.jp/)に行ってきました。

キャッチコピーのごとく、と言うと大げさな気がしますが、明治時代から誕生して、現代にいたる「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸」の優品が揃っていて、大づかみではありますが、確かにここ100年の日本の「美術」史がたどれる展覧会だったように思います。

第一章、文展時代では上村松園の《花がたみ》(1915)にはじまって、竹内栖鳳の《アレ夕立に》(1909年)、土田麦僊《髪》(1911年)と写実性を追求した美人画の優品が充実しています。とくに目を引いたのが、竹内栖鳳の《飼われたる猿と兎》(1908年)で、動物のしなやかな体や毛並みだけでなく、野性味や意思までも描こうとする気迫にあふれていました。村上華岳、山本春挙、橋本関雪、小野竹喬、川合玉堂ら、当時の日本画壇をリードした画家たちの作品も、力のある作品が揃っていました。
彼ら日本画家の多くは、京都はじめ関西を中心に活動した人々である一方、洋画は、黒田清輝、藤島武二、中村不折、岡田三郎助、和田三造など、東京を中心とした画家が多いという傾向があります。和田三造《南風》(1907年)は、教科書などでよく取り上げられています。

彫刻も、荻原守衛《女》(1910年)、朝倉文夫《墓守》(1910年)といった、これまた教科書で一度は見たことがある作品が並んでいました。


第二章、帝展時代になると、運営の母体はそれまでの文部省から、帝国美術院へと変わります。日本画は、がらりと雰囲気を変え、「新興大和絵風」と呼ばれる、丸みを帯びたフォルムに繊細な線と優しげな色彩を持つ作品が急に増えます。たとえば、堂本印象の描く《訶梨帝母》(1922年)は、その典型と言えるでしょう。しかし、鏑木清方の《三遊亭円朝像》(1930年)や西村五雲といった写実的な作品を描く作家も出品を続けています。
この時期、洋画は写実を脱して、岸田劉生や前田寛治といった、アバンギャルドな表現を追及する画家が登場しました。

さらに、この時期には版画と工芸が新たな部門が作られました。陶芸、漆芸、染色の作品が、工芸部門に出品されています。浮世絵研究をしていた織田一磨の版画作品や、最近注目を集めている板谷波山の作品が目を引きました。


第三章、新文展時代は、二回に渡る組織改変の後、再び文部省が運営母体となって始まりました。文展時代からの巨匠、鏑木清方、竹内栖鳳、橋本関雪ら京都の画家に加え、東京美術学校で学んだ横山大観や前田青邨が気を吐いています。

洋画の領域では、逆に関西美術院に学んだ梅原龍三郎が登場しています。さらに、版画の分野では、棟方志功が特選を受賞し、これをきっかけに注目され始めたそうです。

この時期の彫刻は、作家の名前こそさほどメジャーではありませんが、かなり力のある表現のものが多いように思いました。工芸もまた、伝統を見据えつつ、大胆でデザイン性に優れた作品が増えているように思います。昨年展覧会が行われた富本憲吉や、今に続く京焼の一家、清水六兵衛の五代目も手元に置きたくなるような、素敵な逸品を出品しています。


第四章、日展時代は、戦後から始まります。横山大観や堂本印象といった戦前からの巨匠に加え、伊東深水、東山魁夷、池田遥邨といった現代になじみの深い作家たちも登場しました。この時代では工芸部門が非常に充実し、山崎覚太郎《漆器 空 小屏風》(1950年)は、非常に印象深い作品でした。ここから、「書」が新たな部門として加わります。

国立新美術館には初めて行ったのですが、大きな建物のなかに、いくつもの展覧会場やギャラリーがあり、ひとつひとつの展覧会場はさほど大きくありません。作品数も多すぎず、少なすぎず、ちょうど良い塩梅で見ることができました。建物の各所に椅子が用意されていて、ゆったりできる雰囲気。近くには、六本木ヒルズの森美術館や、ミッド・タウンのサントリー美術館があり、3つの美術館を手軽にまわることができます。上野に続く美術館集中エリアとして、六本木が、注目したい場所になりました。