「蜀山人 大田南畝―大江戸マルチ文化人交遊録」展
中野志保 

本展覧会は、江戸の役人でありながら、漢詩、狂歌、戯作までこなした当代きっての一大趣味人、大田南畝(おおたなんぽ・1749〜1823)を本格的に取り上げた初めての展覧会です。江戸時代、特に中ごろから後半にかけての(地方としての)江戸文化を研究しようとするならば、必ずどこかの資料に顔を出すほど、はばひろく、また多くの狂歌を、本・摺物等さまざまな媒体に残した人です。

この展覧会は、八章構成になっていて、まず第一章では、一個人としては珍しいほど多く描かれた南畝の肖像画を取り上げ、まず具体的・視覚的に「こんな感じの人だった」というイメージを観者に抱かせます。続く第二章では、南畝が執筆した文学作品を取り上げ、十代に刊行した漢詩集の処女作から狂詩、黄表紙へと、「雅」の世界から「俗」の世界へと足を伸ばした自由な執筆活動が紹介されていました。

第三章では、南畝が広くその名を江戸文化界に轟かせることになった狂歌の作品にスポットを当てています。残念ながら、現物の狂歌集は、見開き2ページしか展示できませんが、「世の中は 酒と女が敵なり どうぞ敵に めぐりあいたい」「今までは 他人が死ぬとは 思ひしが 俺が死ぬとは こいつぁたまらん」など、有名な南畝の狂歌がパネルで紹介されていました。どの句にも、大爆笑というよりは、くすっと笑いたくなるような、鋭いセンスが光っています。

第四章では、狂歌を通して、南畝が交遊を持ったさまざまな階級の人々が紹介されます。こうした狂歌の世界では、参加者がそれぞれペンネーム(狂名)を持っており、当時江戸歌舞伎のトップスター、五代目市川団十郎は「花道つらね」、江戸琳派の立役者である酒井抱一は「尻焼猿人」といったように、皆、洒落のきいた名前を競うように付ける、そんな世界が見えてきます。

さらに、第五章では、こうした南畝をはじめとする狂歌師の読む狂歌が、一枚摺の浮世絵に刷り込まれたり、狂歌本に浮世絵師が挿絵を寄せた例が紹介され、言葉とイメージによって、当時の趣味人たちが楽しんだ「俗」の世界を垣間見ることができます。

第六章は、南畝が画賛を寄せた、肉筆の浮世絵美人画が取り上げられます。「美人」とは当時の「遊女」、男性にとっては仮初めの恋の相手です。例えば、作品no95,磯田湖龍斎の美人画には、こんな句が。「まことはうその皮なり うそはまことのほね まよへばうそもまこととなり さとればまこともうそとなる うそとまことの中の町 まよふもよし原 さとるもよし原 けいせいのまこともうそも有磯海のはまも真砂の客の数々 蜀山人」艶っぽい恋の句とも言えますが、そこに纏わり付く虚偽性や悲哀のようなものに対して、どこか諧謔めいた姿勢で語る姿勢も感じられます。

さて、これまでの第二章から六章まで見てきたのは、「俗」の側の南畝の顔でしたが、第七章・第八章では、漢詩を嗜み、文人画家とも交流を深める「雅」の世界の南畝が紹介されていました。

このように「雅」と「俗」の世界を自由に行き来した南畝。しかし、このようなあり方は、浮世絵から琳派までをよくした酒井抱一など、「雅俗融合」と一般的に呼ばれている、当時の江戸文化界にあって決して珍しいスタンスではなかったと思われます。

最後に、図録のなかでは、南畝の人間性という部分に突っ込んだ論考が興味を引きました。あれだけ洒脱な、洒落のきいた狂歌を詠む南畝。反面、還暦を過ぎても役職を務める勤勉さ、赴任先や旅行の出来事を事細かく記録する「細推物理」な面を持ち合わせており、その二面性のうちに、危うい、しかし絶妙なバランスを保ちながら生きていたのではないかと言うのです。

美術史研究のなかでは、「人間性」という部分は、学術的に証明不可能なことがらですので、殆ど扱わないのが常套ですが、こうした実在した人物がどんな人間だったのかを考える際には、そうした説明が付けられることによって、その「人」を現実感を持って感じられるのだな、と思いました。