文化を読む――カルチュラル・スタディーズの試み
佐藤守弘 
(本学講師)

・上野俊也、毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』、ちくま新書、2000年、
ISBN4-480-05861-2、600円(税別)
・ロラン・バルト『神話作用』、篠沢秀夫訳、現代思潮社、1967年、ISBN4-329-00059-8、
2200円(税別)
・ジョン・フィスク、ジョン・ハートレー『テレビを〈読む〉』、池村六郎訳、未来社、1991年、ISBN4-624-01105-8、2500円(税別)
・ジュディス・ウィリアムソン『広告の記号論――記号生成過程とイデオロギー』全2巻、つげ書房新社、1985年、ISBN4-8068-0294-8、2000円(税別)

人が「文化」という単語を口にするとき、そこには往々にして、絵画や音楽など「教養のある一部のエリートによって作られ、理解されてきたもの」という意味が包含されることが多い。「文化人」や「文化講座」などの用例がそれに当たるだろう。この使い方に従えば、この世の中には「文化的なもの」と「文化とは呼べないもの」が存在することになる。一方、そのような用法ではなく、文化の範囲をもっと広げる人たちもいる。この場合、文化とは「生活のすべての仕方(whole ways of life)」となる。人類学者や社会学者たちは、この定義のもと、さまざまな「無文字文化」や「若者文化」を研究してきた。ただ、美術史や芸術学などの人文諸学においては、何となく前者の使われ方が多かったように思われる。
1970年代頃から、イギリスではカルチュラル・スタディーズという超領域的な研究が起こってきた。それは大衆文化やサブカルチャーなど広い意味での「文化」を批判的に研究するための方法論であった。「文化研究」と訳すと、何となく文化の本質を語る〈日本人論〉のようなものと混同されかねないが、実は全く逆である。大衆文化の研究に、フランクフルト学派、記号学、構造主義、そしてマルクス主義などの方法論を取り入れたイギリスの研究者たちによって、バーミンガム大学の現代文化研究センターなど周縁の大学――オックスフォードやケンブリッジなど中心の権威あるアカデミーではなく――で始められたののがカルチュラル・スタディーズなのである(比較的独立独歩であったイギリスの思想界において、このような大陸系の言説を移入すること自体、ラディカルであったといわれる)。さまざまな入門書が近年発刊されているが、ここではコンパクトにまとめられている新書版の『カルチュラル・スタディーズ入門』を挙げておきたい。
カルチュラル・スタディーズは、文化的な制作物に政治の力学を読みとるが、そのようなアプローチの源泉のひとつに、記号学を応用したロラン・バルトによる『神話学』(日本語訳は『神話作用』)がある。彼のいう神話とは、神々が登場する物語のことではない。既存の権力構造を正当化する作用のことである。イデオロギーと言っても良いだろう。彼の分析を一例紹介したい。『パリ・マッチ』という雑誌の表紙に、黒人の少年兵士が国旗に敬礼している写真が載っていた。バルトはそこに「フランスは偉大な国家で、その民草は肌色の区別なく、その国旗に忠誠に仕えるのであり、いわゆる植民地主義などと中傷する連中に対しては、いわゆる圧制者に奉仕するこの黒人の熱意こそ最良の返事なのだ」というメッセージを読みとる。これが彼の言う「今日の神話」である。すなわち、この写真入り週刊誌の表紙は、フランスの植民地主義を正当化する神話であったのである。
カルチュラル・スタディーズもまた、文化の政治性に敏感に反応する。以前、紹介したヘブディッジの『サブカルチャー』も若者のファッションを記号として分析して、サブカルチャーの果たす体制への象徴的抵抗を読みとった。今回、挙げたフィスク/ハートレーによるテレビ番組の研究も、ウィリアムソンによる広告の分析も、記号学的分析を基盤としてイデオロギー批判を試みた力作である。カルチュラル・スタディーズ自体まだまだ若かった時期の著作であるせいか、記号学の考え方については両書とも丁寧に解説されており、そちらの入門書にもなるくらいである。
カルチュラル・スタディーズもいまや全世界に浸透し、また同時にそれに対する反発、反動も多く見られる。しかし、この時代だからこそ、その初期の著作を再確認しておくことが必要ではないだろうか。