特集:マンガを語る
佐藤守弘 
(本学講師)

現代日本の視覚文化を考える上で、マンガ(漫画/コミックス)を無視することはできない。マンガについて書かれた書籍/雑誌も多く出版され、「大学生がマンガを読むなんて」と嘆かれたのが遠い昔のことにように思われる。数年前には、美術史学会の全国大会でシンポジウムのテーマに選ばれ、昨年には、日本マンガ学会が発足した。また、いわゆるアートの世界にも、〈マンガ的なもの〉をモティーフとして、あるいは手法として用いる作家が増えている。
 とはいえ、まだまだ研究対象としては若く、方法論も確立されていないため、マンガをどのように語ればよいのか、悩む向きも多いだろう。今回は、マンガのストーリー面──すなわち〈何を描いているのか──の分析はさておき、その視覚的な側面──すなわち〈どのように描いているのか〉──を分析の対象とする批評を中心として、研究の指針となるであろう基礎文献を紹介したい。
■夏目房之介『夏目房之介の漫画学──マンガでマンガを読む』、ちくま文庫、1992年、ISBN4480026258、560円(税別)
■『マンガの読み方(別冊宝島EX)』、宝島社、1995年、雑誌6598577、971円(税別)
■四方田犬彦『漫画原論』、ちくま学芸文庫、1999年、ISBN4480084789、1200円(税別)
■手塚治虫『マンガの描き方――似顔絵から長編まで』、光文社文庫、1996年、ISBN4334722636、466円(税別)
■清水勲『日本近代漫画の誕生』、山川出版、2001年、ISBN463454550、800円(税別)
■『木野評論』臨時増刊(文学はなぜマンガに負けたか!?)、京都精華大学情報館、1998年10月、ISBN4916094247、1200円(税別)

マンガの視覚的側面に注目した批評──マンガ批評の世界では〈表現論〉といわれる──の草分けが夏目房之介である。もともとマンガ家である夏目は、模写を通じて、さまざまなマンガ家の描線を解析することから、批評をはじめた。それは『夏目房之介の漫画学』に見られるように、「作者になりきる」ことによって、マンガの制作の意図に迫るものである。そうした試みの集大成が、夏目やマンガの原作者である竹熊健太郎を中心とした人々による『マンガの読み方』である(ムックであるため手に入りにくい憾みはあるが)。この本では、マンガを、構成要素──線、記号、コマ、吹き出し、言葉など──に分解して考察する。いわばマンガの成り立たせるシステムを分析する試みである。

マンガ読みが、当たり前のことと思って見逃していることが、必ずしも所与のこととは限らない。例えば、夏目のいう「形喩」――「形態による比喩」という意味だろう――がそうである。額に描かれた水滴が、汗を意味し、さらには〈焦り〉を意味するというようなこと。あるいは、同じく額に描かれた十字型の線が、血管を意味し、さらには〈怒り〉を意味するというようなこと。これらは、マンガを読み慣れた人間には、当たり前に理解されるのだが、すべての人類がそれを理解するわけではない。それらの視覚的記号がそれぞれの感情を意味することを、マンガの書き手と読み手が共通に了解していなければならないのである。すなわちヴィジュアル・リテラシー(視覚的読み書き能力)の問題である。夏目らの試みは、マンガのリテラシーのシステムを明らかにする点にある。

振り返ってみれば、手塚治虫は、マンガをシステムとして捉えていた先駆者と考えることができる。1972年に書かれた『マンガの描き方』は、基本的にはハウ・トゥーものである。手塚はマンガの制作過程を、「絵を作る」=視覚的側面、「アイデアを作る」=ストーリーの面、そして、それらを統合した「マンガを作る」という三過程に分け、分析する。夏目のように系統だってはいないものの、〈表現論〉的読みの先駆者といってよいであろう。

よりアカデミックなアプローチは、『漫画原論』に見られる。著者は、比較文学理論、映画理論を専門とする研究者である。本書の目的は、マンガという表象システムを成り立たせている「内的法則」を検討することにある。そのため著者は、マンガの描く〈内容〉はさておき、〈形式〉にのみ注目する。記号論をはじめとする現代思想の成果を応用した共時的分析は、微に入り細に亘るものである――コマ、運動の表象、画面、科白、オノマトペ等々。そうしたマンガの文法やコードが明らかにされ、さらにはそれらからの逸脱は、〈修辞法〉として読まれる。もちろんタイトルにあるように、これは〈原論〉であり、個々の作品を読み解くためには、社会的、歴史的なコンテクストという変数を代入しなければならない。

今まで紹介した夏目、四方田以降の新世代の研究者たちも出てきている。ジャクリーヌ・ベルントやマット・ソーンらを中心として、刺激的な論考がさまざまに発表されている。先述の日本マンガ学会の母体でもある京都精華大学の発行する雑誌『木野評論』の臨時増刊――「文学はなぜマンガに負けたか!?」という挑戦的な副題を持つ――を見れば、現在進行形の研究動向が垣間見られるであろう。

もう一冊、毛色の変わった研究を紹介しておきたい。清水勲の『日本近代漫画の誕生』は、歴史的なアプローチを採る。幕末の風刺画から始まり、明治に西洋の影響を受けて、さらには大正期の柳瀬正夢に至る〈カートゥーン〉、すなわち一枚絵マンガの系譜をコンパクトにまとめている。このような作業もまた、マンガ研究の土台作りには欠かせない基礎作業として評価するべきであろう。

とはいえ、田河水泡以降、あるいは手塚以降のストーリー・マンガとカートゥーンは、根本的に異なるメディアと考えた方が良い。最近でも、《鳥獣戯画》をマンガの源流としたり、あるいは絵巻物をストーリー・マンガの源流としたりして、「日本文化には昔からマンガ的なるものがあった」とするような言説があるが、これらは安易な比較であるように私には思える。絵巻、戦前のカートゥーン、戦後のストーリー・マンガ、あるいは現代のコミック・マーケットで流通するもの。それぞれがどのように作られ、読まれたかという状況を踏まえずに結びつけることは、〈日本人論〉などの本質論につながる危険性がある。マンガの受容における歴史的、社会的状況の差異を鑑みながら、分析していくべきであろう。