メディア論の諸相
佐藤守弘 
(本学講師)

現代に生きる私たちは、普段に大量の視覚的な情報に曝されつづけている。家のなかでは雑誌、テレビ、ヴィデオ、ゲーム、ウェブ。外に出れば街頭の広告、看板、巨大モニターなど。こうした視覚的刺激は、近代以降、加速度的に増え続けている。こうした現実に対して、私たちはどのように対処しているのだろうか? こうした疑問こそがメディアを考えることの出発点にある。

メディア(媒体)とは、そもそも「霊媒」という意味を有することからも判るとおり、何者かから何者かへ、なんらかの情報を受けわたすモノのことである。したがって、言語やイメージは、ことごとくメディアである。ということは、文学研究や美術史も広い意味ではメディア研究の一部をなすといってもいいだろう。

しかし、一九世紀後期における写真や映画といった映像技術の発明以来、時代は激変した。すなわち「複製技術時代」に突入したのである。イメージは、遍在するようになった。これに敏感に反応したのがヴァルター・ベンヤミンであった。第二次世界大戦の終焉から冷戦期にかけて、テレビに代表されるように、マスメディアの影響力はさらに増大していく。さらに一九九〇年代におけるコンピュータ、インターネットの浸透により、メディアを考えることは、現代社会を理解するために、さらに重要になってきている。今回は、六〇年代におけるメディア論とその現代的意義を考える上で参考になるテクストを紹介したい。
 
■ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』、木下誠訳、ちくま学芸文庫、二〇〇三年

資本主義が、生産主導から消費主導に移り、情報資本主義と呼ばれる状況に対して批判を繰りひろげたのが、フランスの思想家ギー・ドゥボールである。彼は映画作家でもあり、シチュアシオニスト・インターナショナルと呼ばれる芸術=政治運動の中心人物であった。「状況の構築」を目指した彼らは、ダダやシュルレアリズムを受け継ぎながらも、流用や引用を中心とする、より過激な活動を繰りひろげた。そうした運動のまっただなか、一九六七年に出版されたのが『スペクタクルの社会』である。

本書は、二百十一の短いテーゼの断片からなる。「近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった」とドゥボールは述べる。それはかつてマルクスが「疎外」と読んだものの情報資本主義時代におけるかたちであり、同時代にボードリヤールが「シミュラークル」と名指したものでもある。この社会においては、オーディエンスもまた単なる受容者ではあり得ず、スペクタクルに巻き込まれてしまう。

このテーゼ集から三十五年経った現在、社会は、よりスペクタクル性を強めている。インターネットが世界を結ぶ一方、いわゆるグローバリズムの専制が拡がっていく。こうした状況下、ドゥボールの思想は、ますますアクチュアリティを増しているのである。

■マーシャル・マクルーハン『メディア論――人間の拡張の諸相』、栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、一九八七年
■W・テレンス・ゴードン『マクルーハン』、宮澤淳一訳、ちくま学芸文庫、二〇〇一年

現在、再評価されているもう一人のメディア論者が、カナダの批評家マクルーハンである。六〇年代に「メディアの預言者」ともて囃され、かれの言った「メディアはメッセージである」、「ホットなメディアとクールなメディア」、「グローバル・ヴィレッジ」などは、一大流行語となった。その後、あっという間にその「熱狂」は醒め、忘れられた思想家となりかけていた。ところが、衛星放送やインターネットの登場した現在、その思考をもう一度読みなおす動きが盛んになっている。その主著が、一九六四年に出版された『メディア論』(原題は『メディアを理解する』)である。

副題の示すように、マクルーハンは、メディアを人間の身体を拡張させるものとして捉える。すなわち、メディアとは人間の感覚を外在化させたものなのである。書記言語の誕生、活版印刷技術の発明と、メディアが変化するたびに文化がドラスティックに変わってきたと彼は言う。とくに電子メディアの発達は、人間の感覚を徹底的に変容させ、メディアの送り手と受け手の関係も変容させるのである。

■吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』、せりか書房、二〇〇〇年

カルチュラル・スタディーズ以降のメディア論の現状を概観できる論集である。扱う対象は、映画、テレビ、マンガ、広告、都市と多岐に亘る。今日のさまざまなメディアの隆盛に対し、それを扱う理論的な地平は、日本では著しく遅れていると編者は指摘する。従来のマスメディア研究、ジャーナリズム研究に捕らわれず、文学研究、映画研究、ニュー・アート・ヒストリーなどと地平を共有して、研究していかなければならないというのである。

メディアを送り手から受け手への固定された一方向の流れとしてのみ捉えるのではなく、受容者(オーディエンス)のまなざしによって生成していく場として捉えるのが、本書の基本的な立場である。レイモンド・ウィリアムズによる初期カルチュラル・スタディーズにおける理論的著作の翻訳が所収されている点や、テレビにおけるオーディエンス研究の重要な論文が訳出されている点もまた注目に値するであろう。
 
もちろん、メディア論は上記だけに留まらず、広範な広がりを見せている。レジス・ドブレ、フリードリヒ・キットラー、ヴィレム・フルッサーなどの著作も次々と翻訳されている。いずれ紹介したい。