「口パク」から考えること: ヴィデオ・パッケージと演出家ポネルの仕事
 VHSヴィデオ『オルフェオ』(POVL2025)、『フィガロの結婚』(POVG2001/2)など
若林雅哉 

オペラをビデオ化した作品を採りあげ、その特徴について述べてみたい。だが、なぜ今ヴィデオ・パッケージなのか。
オペラ作品のDVD化はけっして順調とはいえないが、VHSヴィデオは、いまレコード店の店頭に特別定価で(DVD商品のおよそ半額、おそらくは在庫一掃のため)並んでいる。旧作品とはいえ、まさに旬の商品といえよう。フリードリヒ演出のR.シュトラウス『エレクトラ』、『サロメ』、そしてここで紹介するポネル作品などが、3000円(二本組4500円)で入手できる。もちろん日本語字幕もついているので、初めての皆さんにも安心というわけである。しかも、それらはオペラの見せ方(演出)について考える機会をも今なお与えてくれるのである。
さて、そのラインナップには、音声収録と映像収録の日付が異なるものが多い。つまり(舞台での上演記録ではなく)サウンドトラックを予め収録しておいて、映像収録にあたって歌手は「口パク」(くちぱく)をしているのである。だが、この方式によって演出家は、実際の上演とは比べものにならないほど自由な装置を設け、その中で縦横にカメラを動かすことができるようになるのである。その気になればカメラを舞台の真ん中へ持ち込み、ヒーローの愛のささやきを、ヒロインではなくカメラに向かって歌わせることさえ可能である。しかし弱点がないわけではない。そこにみられる至難のアリアを克服する歌手の集中力はいわば偽装であり、微妙な口パクのズレで
さえ見る者の集中力を確実に奪ってしまうだろう。
ヴィデオ・プロダクションのこの弱点を逆手にとったのが、ポネルの演出=制作であった。舞台美術家として出発したジャン=ピエール・ポネル(1932-1989)は、その豪華な舞台制作で有名である。だが彼は、なによりも口パクをめぐる創意工夫と卓抜なカメラ・ワークによって、ヴィデオ・プロダクションを、オペラの代用品どころか、固有の作品形式へと特化させたのである。
彼は、指揮者アーノンクールと組んだモンテヴェルディ『オルフェオ』(POVL2025)の制作で、エウリディーチェ役を歌唱と演技に分割してしまった。そもそも口パクであれば、何も歌手に演技させる必要はないというわけである。またそのカメラワークも前代未聞のものであった。カメラは頻繁に切り替えられ、曲想の変化にあわせて舞台上から指揮者を映したかと思うと、慌ただしく切り替わり対話するオルフェオとエウリディーチェの大写しの顔面をキャッチボールする。ポネルがこの作品を制作するドキュメンタリーを見たことがあるが、彼は頻繁にカメラを停めては移動させ、ときには現場音を拾わせながら、撮影を進行させていた。そうして絶え間ない視点の変化と焦点の移動を持つ作品が編集されていくのである。その現場を支配するのは、歌劇場でのオペラ上演のドラマツルギー(劇作術)とは異なる、ポネル流の制作の論理=形式であるといわねばならない。
だが口パクがその威力を発揮するのは、ベーム指揮のモーツアルト『フィガロの結』(POVG2001/2)である。アルマヴィーヴァ伯爵の邸宅は、例によってポネル好みに精巧に作り上げられている。そのなかを登場人物=歌手は──そして彼らを追うカメラも──歌いながらでは不可能なスピードで走り回り、伯爵をめぐる策略劇を加速させていく。そして第一幕のケルビーノのアリア“自分で自分がわからない”は、口パクによって損なわれたはずのリアリズムを、他ならぬ口パクによって取り戻しているのである。目覚めはじめた情欲に翻弄される少年の、誰にもいえない苦悩。だが心の煩悶はいちいち言葉に出すものなのか。そのやるせない一人ごとこそは、声高に歌
われるのに似つかわしくないはずだ。カメラは歌手の切ない表情をアップで捕らえるが、ケルビーノはなかなか口を動かさず(音声は流れている)、しばらく歌う素振りを見せるが、やがて我に返ったかのように口をつぐんでしまう。
ここに見るべきは二つ。まずヴィデオ・プロダクションという固有の形式は、すくなくともオペラ上演の代用品ではないということである。作品形式としてのレコードが、生演奏の代用でなかったことは今やよく知られている。ポネルの仕事にもそういった意義を見出してもよいはずだ。そして次に、我々の「見方」がはっきりと変容してきたということ、そして視覚の甘やかしは一層進んでいるということである(べつにそれを嘆くつもりもないが)。実のところポネルのカメラワークは精妙ではあっても、今ではそれほど衝撃的ではない。われわれはもっと慌ただしい切り替えにも慣れている──いや、われわれは絶え間のない切り替えを欲しているのである。おそらくはテレビの親切すぎるカメラワークによって、われわれは調教されてきた。われわれをとまどわせるのは、むしろ客席からの、変化のない一様な舞台の眺めである。人はその眺めに絶えきれず、オペラグラスの力を頼る。ポネルはわれわれにオペラグラスをかけさせ、視線を(少しせっかちがすぎるが)さまよわせてくれるといえないだろうか。
ポネルのやり方はもちろん広汎に受け継がれた。そしてさらに甘やかされた我々の視覚のために、既に実際の上演記録までがポネル流の工夫を駆使している。たとえばコンヴィチュニー演出の『トリスタンとイゾルデ』の上演(1998年)がある(輸入DVD)。そのラストシーンは、イゾルデの非常識な程のアップを流し続けていた。このときすでにオペラはアリバイと化している。ここにあるのは、現在最高のヴァーグナー歌手、W.マイヤーだけを、オペラグラス片手に見にきた観客の体験である。オペラグラス=テレビ時代の「イゾルデの(愛の)死」といえるだろう。