かのオイディプス王の遺児・アンティゴネーは、祖国の敵である兄の埋葬を禁じたクレオンに背いて、愛しい兄を弔うべく儀式を執り行う。彼女は捕らえられ、権力者クレオンの前にひきだされるだろう。彼らの間で、自然の摂理に従うか、国家の法に従うか、激しい議論が繰り広げられる・・。古代の作例としてソポクレスのヴァージョンがのこされているが、この主題が好んで採りあげられるようになったのは、むしろ近代以降のことである。もちろんその流行は、個人の感情(愛・自然の摂理)と共同体の論理(国家の法)の相克という、近代的な分裂症状の顕在化と時を同じくしているのである。個人と共同体の相克といえば、なによりも『ロミオとジュリエット』だろうか。個人的には愛し合う二人は、政治的には仇同士の家に生まれている。また、ラシーヌの描く女主人公フェードルには、恋と政治のその葛藤が、彼女一人の身体に刻み込まれていた。こういった自己と世界の分裂のイメージをひきうけ、近代に異常発生する「アンティゴネーたち」を巡りながら、著者はヘーゲルやキルケゴールの国家論を検討していく。だが、一体なぜ西欧人の自己と世界の相克への意識が、このアンティゴネー劇に主として託されることになったのか。ジャンルを横断する多彩なアンティゴネー像の実例を通じて著者は考察していくだろう。翻案や翻訳に興味がある人には、特にお勧めしたい。
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