「季報芸術学入梅号(no.11)」(別項参照)でとりあげたポネルは、オペラのヴィデオ・プロダクションを(オペラ見物の代用品などではなく)固有の形式を持った新しいジャンルにまで特化していた。そのとき彼の仕事が気付かせてくれたものは、われわれの視覚の変容であった。さて今回とりあげるピーター・セラーズの仕事は、演出プロダクションの批評的機能について考えさせてくれるといえよう。つまりセラーズ演出は、上演史の中で「伝統的演出」として確立された、それゆえ自動的に受容される「スタンダード」への、さらにはオペラの筋書き自体の持つ「都合のよさ」への批判をもっている。このとき、彼の演出は独立した「作品」であることを越え、さらにその背後に、上演史(施された数々の演出)を垣間みせているのである。 たとえばモーツァルト『フィガロの結婚』の、“手紙の二重唱”の演出でもよい。ここでは浮気な伯爵を懲らしめるために、夫人とメイドのスザンナが罠を仕掛けようとしている。つまり嘘の手紙を認めて、その誘いに乗った伯爵の鼻をあかそうというつもりである。二人はその手紙の文面をつくっている──。ガーディナー=シャトレ座制作(イングリッシュ・バロック・ソロイスツ)1993年の公演(輸入ビデオ440072 539-3)では、早めのキビキビとしたテンポを用いることで、この作品本来の──この本来の、というのが胡散臭いのだ──、<策略の劇>といった趣向を明らかに打ちだしている。登場人物たちはこみあげる笑いを押し殺そうとするかのように、わざと早口で述べたてる、そういった「快速」が狙われているのである。この<策略の劇>という方向性は、入梅号(no.11)号で挙げたポネル演出(POVG2001/2)も従っていたトポス、いわば「伝統的」な演出=スタンダードだといえる。 これに対して、セラーズ演出による(スミス指揮、ウィーン交響楽団)1990年の公演(POLL9017/8)は、策略の陰で押し殺された個人の感情がのぞく、<心理劇>といった色彩を帯びている。この二重唱の中では、セラーズのカメラは歌っている歌手を意図的にうつさない。スザンナが歌うとき、カメラは伯爵夫人の不安な横顔を見せてくれる。そもそもは、伯爵の浮気心をたしなめる計略であった。しかし、そのエサとして若いメイドを彼の前に差し出す。伯爵が行動にでたとき(それが策略の成功を意味したとしても)自分はどうなるのか──。また伯爵夫人が歌うとき、カメラはスザンナをとらえる。結婚を控えた自分へちょっかいを出す主人へのお灸のつもりだが、もし実行に移されてしまったとしたら──。セラーズ演出は、ドラマのシークエンスの中では決して前景化されるべきではない心理を明るみに出し、(いくぶん都合のよい)劇の構造への批評的な視点を提供してくれる。 また、確立された伝統への問い直し、あるいはその反転は、ヴァイル作曲=ブレヒト台本『七つの大罪』の演出にも顕著に見られるはずである。この作品の主人公は、現実的なアンナ1(歌唱)と夢見がちなアンナ2(ダンス)によって演じられている。そして主人公たちはお互いを「姉(妹)」(Schwester)と呼びあうが、実は一つの人格の分裂を示していることがやがて明らかとなるだろう。そしてアンナ(たち)は、都会にでてバレエという芸術で金を稼ぎ、家族のために田舎に家を建ててやることを夢見ているが、現実は厳しい。彼女(たち)は、ストリッパー、愛人と次第に身を持ち崩していくのである。 こういった分裂=自己疎外のモチーフは、たとえば次のような場面に典型的にあらわれている。金持ちの愛人となったアンナはもちろん自由に恋愛できる立場にはないが、心惹かれる若い男のことをなかなかあきらめることができない。現実的なアンナ1は、「恋愛なんて、自分の力で喰えるような女にだけ許された道楽だ」と割り切り、若い男と縁を切ってしまう。だが夢見る少女のアンナ2は、どうしても納得することができない。そうしてアンナ1は、「わたしは妹が夜通し泣くのを聞かされた」と歌うことになるが、もちろん泣いているのは、彼女自身なのである。だが、この劇が描く自己分裂を決定的に物語るのは、唯一、アンナの人格が分離していないフレーズ、すなわち同じ「姦淫」の章の中で、恋人と冷静に話し合うシーンの回想であった。ここで初めてアンナ1は、我がこととして歌うことができるのである。「わたしは別段、何てこともしなかったのさ」。 初演当時にブレヒトたちによって仕掛けられた、この「演じられる自己疎外」といった趣向は、たとえばミルバ演唱、井田邦明演出によるプロダクション(日生劇場ライブ、1998年)に確かめることができる。そこにはブレヒト流の社会批判が、やや古色蒼然としたものとなったとはいえ、確かに息づいている。しかし、このようなブレヒトの批判自体に距離を感じるようになってしまった現在の状況においては、セラーズ演出(ストラタス歌唱、ケント・ナガノ指揮)の1993年制作のプロダクションの持つ批評的な距離感のほうが、より自然に受け入れられるのではないだろうか。ここでは、分裂した演者がことさらに「一致」させられているのである。伝統的な「自己疎外」 演出は、分裂したアンナをあたかも双子のようにあつかい、鏡を間においたように対照を描きだしていった。だがセラーズ演出は、そのような二重性・対照性をことごとく拒絶するのである。一度身を持ち崩してしまった後、アンナ1とアンナ2は嬉々として悪事に次々と手を染める、ほとんど共犯者の様相を呈している。彼らは一切衝突することなく、淡々と協同しているのである。ここには、伝統的な「演じられる自己疎外」といった趣向の反転あるいは拒絶が仕組まれているとしてもよいだろう。そして終結部。ヒロインの青春の全ては夢のように過ぎ去り、アンナ(たち)は、故郷の家族とともに「つつましい小さなおうち」を建てる。従来の演出では、都会で夢やぶれた若者を故郷が優しく迎えるといったエンディングが用意されていた。しかし、セラーズが彼らに用意したものは・・。これはご自身で確かめていただきたい。 セラーズは、ボストン・シェイクスピア・カンパニー、アメリカ・ナショナル・シアターの芸術監督を歴任。現在はオペラに関心をうつしている。1987年のアダムズ『中国のニクソン』演出で注目を集める。代表的演出は、指揮者クレイグ・スミスと制作したモーツァルト/ダ・ポンテ作品のチクルス、1992年ザルツブルク音楽祭(バスチーユ・オペラ協同制作)のメシアン『アッシジの聖フランチェスコ』など。
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