受容者の関与をめぐって: 受容美学とテクスト解釈の理論
若林雅哉 

「余計なものなどないよね・・」。こんなふうに始まる唄があった。自分たちに都合の悪いものを切り捨てておいて、それで「余計なものがない」という。恋人たちとは気楽なものである。さて今回は、「作品外のコンテクスト」を切り捨てるか・尊重するか、また「解釈者の欲望」は盛り込んでいいのか・はたまた盛り込み過ぎてしまってもよいのか、に関わる文献を紹介したい。前者は作品の存立に関係し、後者は作品の解釈行為に関係する。だが、その焦点はともに「受容者の関与」といえよう。ご自分の関心(文芸、美術、舞台芸術など)に従って、“読者”“観者”“観客”などと読み替えていただきたい。

■ヤウス『挑発としての文学史』(轡田訳、岩波書店)isbn:4000264036、1999年、3000円
■イーザー『行為としての読書』(轡田訳、岩波書店)isbn:4000262432、1998年、2800円
「作品」を知るにはどうしたらよいか。「作品自体を読めばいい」という人も多いだろう。だが19世紀から20世紀にかけての「実証主義的文学研究」は、「作者」に関する伝記的事実を重んじていた。とはいえ、いかに徹底的に集積されたとしても、作者についての知識が果たして「作品」の理解へとつながるのだろうか? この「作品」自体に集中する方法論が、1930年代から1950年代にかけてのアメリカの文学研究を席巻した。いわゆる「ニュー・クリティシズム(新批評)」である(「作品自体を読めばいい」という意識も、このニュー・クリティシズムによって産み落とされたものといえよう)。ここでは作品は「自律的」な構造体であり、作品だけを「精読」することで、その意味は全ての鑑賞者に平等に開かれるとされていた。つまり、文学研究は客観的な科学の装いをも身につけようとしていたのである。また、このような方法論が、アメリカの文学研究の中で制度化され再生産されていった背景には、文学的伝統をこれから作り上げようとする当時のアメリカにおいては、作品外のコンテクストや既存の文化伝統を、「自律性」のスローガンのもとに精力的に捨象していきたかったという舞台裏の事情=欲望も見逃せないだろう(「自律性」信仰や、「ニュー・クリティシズム」については稿を改めたい)。
しかしながら、個人の経験に応じて作品はそのつど立ち現れるはずではないのか。各人の受容経験は、客観的な“答え合わせ”に終始するのかどうか。まずドイツで、「読者」の主体的関与とその都度の「解釈の歴史性」に重要な働きをみようとする動きが起こった。もちろんヨーロッパにおける解釈学の隆盛のなかで生じた動向であることは間違いない。これが、いわゆる「コンスタンツ学派」の「読書論」である。こうして「受容者」に脚光があてられた。その最初のマニフェストが、ヤウス『挑発としての文学史』なのである。テクストを読んでいくとき時間的に刻々と変化していく、個人的な理解の形式にヤウスは注目する。そのつど更新されていく「期待の地平」を更新あるいは破壊していくことによって文学史は成立していくという。注意すべきは、彼の意図が文学史の書き換えにはないことである。訳者によれば、「作品の自律性を認めることにより、その本質規定から奪われてしまった作品の作用と社会的機能、受け身の立場しか与えられていなかった読者の主体性に正当な位置をとり戻すことが彼の関心である」(「あとがきにかえて」より、傍点は若林)。このヤウスの、いわばマクロ的な挑発を受け、そのつど開き示される個人的な理解の形式を、ミクロ的に検討したのが、イーザー『行為としての読書』である。彼の図式を詳述する余裕はないが、イーザーが「テクストと読者の間の共同作業」を相互作用として捉えている点は注目してよい。読者はそのつどの自らの関心から、テクストの主題と地平をたえず交代させていく。そうして生まれた関心は、また次なる主題の前景化によって絶えず修正されていくだろう。「受容者」の覇権は独裁ではない。テクストとの共同統治の形態をとっているのである。

■エーコ、ローティ他、コリーニ編『エーコの読みと深読み』(柳谷他訳、岩波書店)
isbn:4000002082、1993年、2427円
ところで「受容者」には、どこまでの関与が許されるのだろうか。テクストはどのような相互作用までならつきあってくれるのだろうか。あるいは、読者は自らの欲望のために際限なくテクストを解釈することができるのだろうか。『エーコの読みと深読み』は、1990年にケンブリッジ大学で開かれた連続講演会の記録である。多様な解釈にも一定の制限が自ずからあるとするエーコと、過剰解釈を弁護しようとするローティら参加者の間で議論がかわされていく。エーコの講演「解釈と歴史」では、解釈活動の「秘密」嗜好がとりあげられる。うがった解釈を開発する者は、明白な意味を忌避する“ヴェールの信奉者”(次から次へとヴェールを剥いでいきたい人)に過ぎない。そうして得られるものは、解釈者の欲望の無制限な投影だけであるとエーコは批判する。この過剰解釈の排除のためのガイドラインとして彼が提唱するのが、「作品の意図」であった(講演「テクストの過剰解釈」)。解釈活動は、作者の意図を越えて行われうるだろう。しかし、読者の意図=欲望には、作品に耐えられるものと耐えられないものがある。その可能性の条件を規定する総体を、かれは「作品の意図」とよんでいる。これに対して、ローティはテクストの「解釈」と言うよりも「利用」を提唱するだろう(講演「プラグマティストの歩み」)。解釈行為において欲望の導入は、不可避の事実である。むしろ問われるべきは、その「利用」が生産的たりうるかどうかではないか、と彼は論じている。他の講演者も自らの立場をわかりやすく説明しており、重要文献でありながら入りやすい本となっているので、ぜひお勧めしたい。
以上、作者・作品・読者という三項の暗黙の権力抗争をものがたりながら、受容美学の最重要文献を紹介した次第である。