歴史的コンテクストをどうしますか?
若林雅哉 

前回(別項参照)、受容美学についての文献を紹介するなかで、1930年代から50年代のアメリカを席巻したニュー・クリティシズム(新批評)についてふれた。この潮流はテクストの批評(criticism)から、受容者の解釈の歴史性や既存の文学伝統=歴史的コンテクストを捨象しようとしていた。これに対して受容美学は、(解釈学の影響のもとに)そのつどの解釈者の地平がテクストとの相互交流を経て更新されていくさまを、すなわち受容者の関与を把握しようとするものである。さて、今回紹介する文献は、歴史的コンテクスト(たとえば、当時の文学の潮流でも、理解の形式でも、上演習慣でもよい)が解釈活動や実践にいかに関わるのか(関わりうるか)について、考えるヒントを与えてくれるのではないだろうか。──と、勝手に考えている。

■中村善也『ギリシア悲劇入門』(同時代ライブラリー、岩波書店)
isbn:4002601862
昨秋の蜷川幸雄演出による『グリークス』の上演は、記憶に新しい。現存するギリシア劇(悲劇を中心に叙事詩も含む)10篇を編みあげて作られた芝居である。豪華な俳優陣をそろえ、壮大なスペクタクルを展開する蜷川の舞台には、感銘を受けた方も多いことだろう。現代における一つの可能性を押し進めたものだとわたしも思う。──それはそれとして、だが、初演当時の姿はどうだったのだろうか。ここにあげた中村の文献は、当時の「大ディオニュシア祭」では上演がいかに行われていたのかから語りはじめている。著者は、当時の上演習慣(三人までしか俳優を用いることができない、つまり何役も掛け持ちをするなど)から、われわれに残されたテクストが、舞台の上でいかに再現されていたのかを丁寧に解説してくれる。平易な語り口でありながら、極めて示唆に富む著作である。ギリシア悲劇ばかりではなく、舞台芸術に興味のあるすべての人にお勧めしたい。

■安西徹雄『仕事場のシェイクスピア』(ちくま学芸文庫)isbn:448008388X、
■F.ワイズマン『コメディ・フランセーズ 〜演じられた愛』(VHSビデオ、紀伊國屋書店)IVKP-5
安西は、演劇集団「円」の演出にも携わっている英文学者である。この文献は、役者としてのシェイクスピアの経験、日常を豊富な資料を駆使して描きだすものである。著者は自序に言うように、シェイクスピアの生涯と日常を辿ることに努力している。だが、ここでは、競い合う劇団のなりたち、市当局との綱引き、そして当時の「聖史劇」の上演の実際などについて知ることができる。そして何より、この中世の聖書連鎖劇上演の描写から、シェイクスピアの最初の四部作(『ヘンリー六世』三部作、『リチャード三世』)が、当時の演劇伝統と無縁のものでないことが実感できるだろう。つまり、シェイクスピアは、中世の救済史主題を、挿話を重ねていくという演劇手法そのままに、チューダー朝成立の世俗神話に置き換えていたという。豊富な知識に裏付けされた好著であり、何より面白いので、是非。
さて、このように歴史的コンテクストへの顧慮を示す二著を紹介してきたが、だからといって、現代における解釈や上演も、当時の歴史的コンテクストに従え、あるいは当時の上演実践に準拠せよ、といっているのではない、念のため。現代では、また別のプロダクションの可能性が開かれているはずである。それはそのつど判断されるべき領域であろう。さて、この伝統と現代における意義という危うい均衡の上にたつ劇団、コメディ・フランセーズについてのドキュメンタリーが、上記のワイズマンの作品である。ワイズマンは、音楽もコメントも付け加えない。ルイ14世の勅命による創設(1680年)以来、320年の伝統と歴史を持つ国立劇団、コメディ・フランセーズの日常を、四作品の稽古から、衣装係の仕事、会計報告、引退後の生活まで、「現場」を余すところなく編集していく。現在、展開している実践の記録としても、もちろんワイズマンの作品としても、強い感銘を与えるものである。

■ブルーム『アゴーン』(高市訳、晶文社)isbn:479492707X
だが、歴史的コンテクストは、もちろん解釈を待つ作品に関わるものではないことに注意せねばならない。われわれ解釈者もまた歴史的に制約されているのではないか。なるほど、たとえばギリシア悲劇の舞台実践は、そのテクストのうちに構造化されているのであろうし、シェイクスピアの四部作は、当時の宗教的主題の連鎖する劇との類似によって舞台にかけられていただろう。そして、これはわれわれの決断によって無視することもできるはずだ(実際に蜷川は別の道を歩んだ)。しかし、われわれの理解の経験とその形式については、それを取りまくコンテクストを、歴史性を決して免れないはずだ。具体的に語るべきだろう。ブレイク(1757-1827)のロマンティシズムを経過した読者と『失楽園』テクストの交流は、ミルトン(1608-1674)の時代の読者のそれとは違う(個々の受容経験の違いは、さらに際限ないものとなろう)。このとき、特定の中心テクストに即して語ろうとするよりも、解釈者が主体的にテクスト間を結びつけ、その「テクストのすりあわせ」を実践するのが、ブルームのThe Anxiety of Influence(isbn:0195112210)である。邦訳はまだないので、彼の『アゴーン』をあげておく。前回のローティに倣えば、これはまさに「テクストの利用」といえよう。これが生産的であるかどうかは、みなさんが確かめるべきである。
最後に安西氏の序文から引用しておく。「なによりも大事なのは作品そのものであって、作者の生きた環境、仕事を続けた情況などは、しょせん二の次、三の次であるには違いない」。非常な謙遜であることは間違いないが、ブルームを通過しつつある今日においてもなお、ニュークリティシズム(作品の精読)の呪縛のなんと強いことかと思う。つまり、これもまた、われわれの理解の形式に影をおとす歴史性とせねばならないだろう。