小学校の国語教科書に、パロディについての井上ひさしのエッセイが載っていた。「弱いものであっても、パロディの持つ皮肉の力によって、強大なものの価値を転倒させたり、引きずりおとしたりできる」、──そういう論旨だったように思う。このように皮肉や諷刺をパロディの要点とみる捉えかたは、広く受けいれられたものといえよう。例えば、大辞林第二版によれば、「既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見してわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変えた文学作品。日本の本歌取り・狂歌・替え歌などもその例。演劇・音楽・美術にも同様のことが見られる」という。しかし、この皮肉や諷刺といった要素が、パロディにとって本当に不可欠なのかどうか。この 点の批判的な検討から、多くのパロディ論は始まっている。
■リンダ・ハッチオン『パロディの理論』(辻訳、未来社)isbn: 4624710606 1993年 2500円
もとより「パロディ」の領域は、皮肉や諷刺をこえて広い。上の「本歌取り」や、バッハによる「パロディ」(バロック音楽に普通にみられる既存楽曲からの「転用」)を射程に入れるときには、そういった(皮肉等の)批評的距離はむしろ副次的であることが明らかだ。ハッチオンもまた、パロディを「先行作品を批評的距離をもって反復すること」と捉えている。その上で彼女は、そういった距離こそが、個々の芸術ジャンルを革新し、ときに新しいジャンルを産み出す機動力となると考えているのである。彼女が、先行作品を滑稽化し、新時代を画することになった近代以降の事例(たとえば『モナ・リザ』に口髭をつけたデュシャンの『L.H.O.O.Q.』等)におおくを割いているのは、そのような事情による。もちろん、彼女の分析は、そういったパロディと諷刺の相互関係にはとどまらない。「批評的距離」は、まず作者によってコード化され、そのコードを共有する受容者によって解釈されねばならないはずだ。このパロディ解釈の問題(「著者によるコード化と受容者によるその解読」という記号論的枠組みの中で、「気がつかれないパロディ」をどう考えるか、等)についての彼女の考察も、非常に興味深い。 パロディについて理論的な関心を持つ人にはもちろん、現代(造形)芸術に興味を持つ人にもお勧めしたい。図版も大きくて見やすい。
■ジェラール・ジュネット『パランプセスト 第二次の文学』(和泉訳、水声社) isbn: 4891763167 1995年 12000円 ■ジェラール・ジュネット『アルシテクスト序説』(和泉訳、書肆・風の薔薇) isbn: 4795271798 ハッチオンは、パロディの「諷刺」的性格については慎重だった。だが、それでも「今日のパロディ」を扱う彼女の議論は、その批評的距離、(作者からの)メッセージ性に重点が置かれていたことは否めない。これに対して、パロディ(を含めた「第二次の文学」全般)の構造特徴に重点を置き、より包括的な検討を行うのが、ジュネットである。まず、『パランプセスト』。パランプセスト(palimpsestes)とは、書いてあった文字を消して再利用された羊皮紙のことをいう。つまり、ここで扱われるのは、それを透かしてもとのテクストが窺われる種類のテクスト一般である(上に重ねて書いた意味を込めて、ジュネットはこれらを「イペルテクスト」(hypertexte)と呼ぶ)。そこには、たとえば、なにかの「引用」や「要約」、またなにかの「改作」や「翻案」や「パロディ」、そして「翻訳」までも含まれるだろう。また、その事例は文学には限定されないばかりか、演劇や映画、そしてそれらのあいだのジャンル混交や移植(映画化、または逆にノヴェライズなど)までもが扱われることになるのである。この「包括」性の手がかりとして、ジュネットは、「パロディ」の語源となったギリシア語「パローディアー」の用法には、諷刺的な色彩がもともと希薄だったことを挙げている(「今日のパロディ」を吟味するために焦点を批評的距離に絞ったハッチオンと、古代の詩学を拠り所にすることで考察の包括性を獲得したジュネットの対照もまた面白い)。ジュネットの書物のおもしろさは、なにより、その博識にある。次から次へと様々な事例が繰り出され、その話題に即して物語構造の特徴が点検されていくので、包括的な企画のもつ無味乾燥さを免れている。細かい章立てになっている ので、寝る前の楽しみに一章ずつ読んでいくというのもいいだろう。また、そうして横断あるいは侵犯される様々な文学ジャンルを、「様式」・「テーマ」・「形式」の相関から規定してみせた彼の『アルシテクスト序説』も、あわせてお勧めしたい。
■ジャネット・H・マレー『デジタル・ストーリーテリング 電脳空間におけるナラティヴの未来形』(有馬訳、国文社)isbn: 4772004726 2000年 4200円 物語(ナラティヴ)研究の金字塔であることは疑いないジュネットの二著を挙げたが、彼の包括性には、いまや留保をつけねばならないだろう。まさにパランプセストの比喩にいうように、彼の対象は書かれたテクストに限定されているのである。しかし、われわれはロールプレインゲームにも物語を認めるばかりでなく、従来のジャンルとは比較にならない度合いでその物語に没入している(ハマる)のである。それは、〈新しいメディア〉に支えられているのはもちろんのこと、〈新しい物語のかたち〉を産み出そうとしている。つまり、一本の線的なシークエンス(物語の展開)に対して、多元的なシークエンスが可能となったのである。とりわけネット上のそれでは、繰り返しリプレイすることで異なる物語空間を体験するばかりか、リンクによって並列するキャラクターを行き交い、プレイヤー同士は互いの振る舞いに共感を抱き反応することができるようになっている。この物語空間を、われわれの考察の領域から閉め出す理由はもはやどこにもない。著者はいう。「数世紀のち芸術史家は、・・ナラティヴの伝統の根源を調べるにあたって、『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説』や『ポケットモンスター』で論を起こすかも知れない」。
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