ミーメーシスと(オリジナルな?)現実
若林雅哉 

■ プラトン『国家』(藤澤訳、岩波文庫・上下巻)isbn: 4003360176、4003360184
■ ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(竹原訳、法政大学出版局)isbn: 4588001361
■ E. アウエルバッハ『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写』(篠田他訳、ちくま学芸文庫・上下)isbn: 4480081135、4480081143

 もともとは「まね」を意味するギリシア語<ミーメーシス>は、プラトンがその国家論で取りあげて以来、芸術論のキーワードとして様々に変奏されてきた。「まね」すなわちコピーである以上、そのオリジナルが先行している(に違いない)という前提がその焦点であった。たとえばプラトンの『国家』第十巻の「詩人追放論」は、芸術家の仕事を「真実から三段階遠い」と批判していた。彼によれば、この世界の「現実の椅子」などは、真実の「椅子のイデア」のコピーに過ぎない。してみると、芸術家のつくる「椅子の絵」は、コピーのコピーと言うことになるというわけだ。それは人の目をくらます似像であって、真実から人を遠ざけてしまうという。だが、いつでもミーメーシスの産物は、オリジナルたる現実との対応の中で考えなくてはいけないのだろうか。この点について、アリストテレスはリラックスした対応を示している。詩作をミーメーシス行為と捉えた彼は、まねをする「技術」に力点を置いた。ミーメーシスの産物についても、それ自体が完結したものでなければならないと考えたのである(『詩学』6,7章)。彼の関心は、“そのための技術”にあった。アリストテレスは、現実との対応には目くじらをたてない。現実をそのまま持ってきても、完結したものにならないこともある(とりとめなく過ごした今日の一日を振り返っても、それは歴然としている)。彼の関心事は、作品構造の組み立てられ方だったのである。医学論文も詩作も歴史記述も、その違いは、韻律の有無や現実との対応ではなく、書き手の技術と方法にかかっているのである(『詩学』9章)。
 だが、現実との対比を必ず背後に抱え込んでいるミーメーシスのコピー性は、いつでも思想家たちの懸念をよんできた。つまり「オリジナル>模造品」という位階関係、ひいてはプラトン流の「真理>仮象」という位階関係は、西洋の知的伝統の中に君臨し続けてきたのである。しかしながら、ニーチェの「プラトン主義転倒」プログラムを経験したボードリヤールには、もはやこのような位階関係を維持することは出来ない。彼は現代の芸術・文化状況のために、「模造品」・「偽物」といった意味の<シミュラークル>概念を要請したのである。複製技術によって支えられる文化消費社会、また現代芸術においてみられるシミュラークルたちは、もはやオリジナルたるべき真理を目指そうとはしない。シミュラークルは他のシミュラークルを指し示して、その差異の戯れでわれわれを魅了あるいは幻惑させるのである。もはや<オリジナル>も<真理>も、シミュラークルに先行しはしない。いやむしろボードリヤールは、広告イメージのようなシミュラークルこそ、それが対応するとわれわれが受けとめる現実に先行していると論じているのである。
 ミーメーシスの位置づけをめぐる古代からポストモダンまでの推移は、だいたい上のようなものであろう。だが、そのミーメーシス自体の変遷はいかなるものだったのだろうか。アウエルバッハの『ミメーシス』は、ホメロスからヴァージニア・ウルフ(1882-1941)にいたる20の文学作品にみられる<現実>描写の変遷を克明に分析したものである。切れ味鋭い分析は、ホメロスと旧約聖書を比較する第一章から、その緊張感を失うことがない。古代ギリシア人とユダヤ人にとって、両テクストの物語のもつ真理性は疑いえなかった。これを比較・分析することにより、アウエルバッハはヨーロッパ文学における現実描写の根底にある二つの文体を発見するだろう。すなわち一方は、入念に形象化され、均一に照明された、単純明瞭な一義性。そして他方は、
表現されないものの暗示を投げかける、背景をそなえた、多様さとその解釈の必要性である。これ以上は考えられない名ガイドによる案内、しかも名場面揃いということで、文学に興味のある全ての人にお勧めしたい。
 参考: なお詩人追放論について興味のある方は、岩波版プラトン全集第11巻(isbn: 4000904213)所収の、藤澤令夫による補注B「いわゆる『詩人追放論』について」(765-773頁)を参照してください。問題の在処が整理されています。また、アリストテレス『詩学』については、本連載12号で紹介しておきました。

■ 野家啓一『物語の哲学』(岩波書店)isbn: 4000022989

 技術の人アリストテレスは、詩作と歴史記述の違いを、構成の違いに帰着させていた。これが逆に照らし出すのは、歴史的事実に取材することがいかに多いかということである。それは古代ギリシアのみならず、シェイクスピア『リチャード三世』から、大河ドラマ『葵三代』まで枚挙にいとまはない。江戸時代のほとんど年表のような記述から、大河ドラマまでの間には、おそらく無限の段階の区別があるだろう(むしろ核心は、現実/物語といった二項対立ではなく、各ジャンルに固有の約束に従った現実化といった点にあると考えるが)。だが、歴史記述の方から考えるとしたら? 歴史記述は、そもそも物語性というものを排除して成り立つのだろうか。理想的年代記という概念を使って<歴史の物語性>を分析してみせたのが、ダントー『物語としての歴史』(河本訳、国文社、isbn:4772001727)であった。<歴史の物語性>が明らかになるとき、物語と歴史記述の間には、程度の差のみが存在するということも出来よう。ここでは、決して読みやすくはないダントーの論旨を解説し考察する、野家啓一『物語の哲学』をお勧めしておく。この書物は、「物語行為」の考察を通じて、物語と歴史、哲学、さらには科学的言説の連続性を示そうとする野心的な試みでもある。