近代日本の演劇: 新派、新劇の成立まで
 河竹繁俊『概説日本演劇史』/CD『蘇るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座』/CD『全集日本吹込み事始』/大笹吉雄『日本現代演劇史 明治・大正篇』
若林雅哉 

 「新劇」ってなんだろう? よく聞く言葉だが、実のところよく判らない──そういう印象の人も多いのではないか。明治以降のこの潮流は、イプセンやゴリキーなど西洋近代劇の“戯曲”の移植を目指した運動であったとしてよい(欧米の作品に普通に接する今日では、ほとんど「現代劇」として考えることができる)。つまり、スターシステムに基づく明治維新以前の歌舞伎(そのとき戯曲よりも“名優”の芸が焦点となる)に対して、新劇は欧米の“戯曲”を焦点として、その翻案・翻訳上演を目指したのである。そして歌舞伎への反発というかたちで、欧化政策(演劇改良運動)と新派の時代を経て産まれた新劇は、やがてわれわれもよく知る文学座・俳優座・民芸などの劇団へと変化していく。だが、今度は、“西洋劇の移植にうつつを抜かす”新劇自身への反発というかたちで、(再び)“俳優の特権的肉体”をとく戦後の「小劇場運動」が生まれることになるだろう。今回は資料・文献をあげながら新劇の勃興までを概観し、その後の展開については、次回触れることにする。

■ 河竹繁俊『概説日本演劇史』(岩波書店)isbn4-00-000263-5 4400円
 1872(明治四)年、従来の歌舞伎を「上流貴紳の鑑賞」に堪えるよう改める旨の政府通達がだされた。つまり濡れ場の「卑猥・残酷」が禁止され、考証を度外視し時に御都合主義的な歌舞伎台本に対しては「史実・道徳」が求められたのである。これを「演劇改良運動」という。この運動は、髷を落とした新風俗を描く「散切狂言」など新風を吹き込んだ。とはいえ「伝統を解さぬ」改良だとの反発(坪内逍遥等)も根強く、やがて近代化=欧化政策の伊藤内閣崩壊とともに尻つぼみになっていく。だが、戯曲に対する批評眼が開かれたことは注目に値し、また散切狂言は「新派」という新しい風俗劇を産み落とした。以上の展開については、河竹の書物が詳しい。この書物は上代から日本の演劇史を通観するものだが、とくに歌舞伎と明治以降の演劇改良運動について丁寧に教えてくれる。

■ CD『蘇るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座』(東芝EMI)TOCG-5432
■ CD『全集日本吹込み事始』(東芝EMI、10枚組)TOCF-59061~71
 明治二十年代に発生した「新派」は、世相風俗をとりあげるなかで政治を好んで扱った。とくに川上音二郎は、その『板垣君遭難実記』(1891)や『壮絶快絶日清戦争』(1894)といったルポルタージュで名をあげる(その人気は、乱闘シーンが支えていた)。彼は貞奴を伴い海外視察に旅立ち、西洋演劇の実際を見聞する。このとき録音された川上一座の公演が近年発見され、CDに復刻されている(『壮絶快絶』のワンシーンも収録)。川上のヨーロッパ公演を紹介する解説書も親切である。この視察の成果として、音二郎らは1903(明治三十六)年に『オセロー』と『ハムレット』を上演した。だが、この上演は舞台を明治時代の日本に“翻案”したものであり、またシェイクスピア劇ということもあって本格的な近代劇移植とはいいがたい。ちなみに一座の伊井蓉峰は、1897(明治三十)年に既に尾崎紅葉の翻案によってモリエール『守銭奴』を新演劇『夏小袖』として上演していた。このとき伊井に協力し、自作『玉筺両浦島』を提供した森鴎外の発言が時代の潮流を示している──「戯曲ありて後に演劇あり」。この『夏小袖』と鴎外の作品上演は『全集日本吹込み事始』に収録され、伊井の軽妙な語り口に触れることができる。この全集は、1903(明治三十六)年に来日したイギリス人技師ガイズバーグによって録音されたものである。一行は、一ヶ月に渡って日本の芸能(雅楽、義太夫、演劇、浪曲、落語など)をSP273枚に録音した。解説も懇切丁寧であり、レコードという現象に興味のある人も是非参照していただきたい。一枚の抜粋版(TOCF-59051)もあるが、『夏小袖』等はそちらには収録されていないので御注意。ちなみに新派は、その後『金色夜叉』などの新聞小説の劇化といった読み物の上演に向かい、やがて花柳情話劇に至り、われわれの知る「新派」となるのである。

■ 大笹吉雄『日本現代演劇史 明治・大正篇』(白水社)isbn4-560-03231-9 17000円
 翻案による移植に続いて、翻訳上演が目指されるようになる。まず1906(明治三十九)年、坪内逍遙が「文芸協会」を設立し、弟子・島村抱月の帰国を機に『ベニスの商人』の「法廷の場」を翻訳上演した。しかし、これは女形によるポーシャであり、歌舞伎から未だ脱却してはいない。彼らは三年後、「後期文芸協会」として再出発をはかる。そして一般から男女の志望者を募り、付属演劇研究所で実技と講義を課した。この中に松井須磨子がいたのである。彼女は翌1910(明治四十三)年、イプセン『人形の家』の女主人公ノラを演じ評判を呼び、本格的な西洋近代劇の日本移植に大きく寄与することになる。しかし同時に須磨子の人気は、戯曲を重んじる新劇運動をスターシステムへと揺り戻すことにもなった。ズーダーマン『故郷』が政府通達によって批判された際、公演を中止しようとした逍遙と、戯曲内容を変更してでも須磨子をプロデュースしようとした抱月との確執にそれは象徴されている。こういった確執を経て文芸協会は解散し、抱月は、スター・須磨子を中心する「芸術座」を設立する。
 新劇の一応の完成とされるのは、1909(明治四十二)年の小山内薫と市川左団次による「自由劇場」設立である。彼らは、素人を玄人に養成した文芸協会とは逆に、歌舞伎俳優を(しかも女形さえも)翻訳劇に「素人」として動員したのである。求められたのは、俳優の熟練ではなく、戯曲自体の近代性であった。「真の翻訳時代」(小山内)を日本の劇団に起こそうとした彼らの上演、イプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』は大評判となった。戯曲を中心に演劇が展開した時代は、ここに頂点を迎えたのである。だが、ワイルド『サロメ』(主演はもちろん須磨子)の大成功によってますます隆盛していた芸術座の人気に押され、また左団次の歌舞伎復帰により、自由劇場も竜頭蛇尾に終わってしまう。しかも皮肉なことに、新劇運動が大衆に認知されていったのは、須磨子の人気によるところが大きかった。トルストイ『復活』の芸術座上演──というよりも、劇中歌「カチューシャの歌」の大流行によって、近代劇が、当初の思惑を離れた形で、日常的なものとなっていったのである。だが十年後の1919(大正八)年、抱月と須磨子の悲劇的な最期をもって、第一次新劇運動は終焉を迎えてしまうだろう。以上、図式的に概観したなかには、もちろん書き落としたことは多い(たとえば、新劇運動の陰で歌舞伎がいかなる変貌を遂げていたのか等)。その補足のためにも、大笹の書物を是非参照してほしい。多くの資料を駆使し、記念碑的な浩瀚さで明治・大正の演劇の動向が論じられている。また、井村君江『「サロメ」の変容 翻訳・舞台』(新書館、isbn4-403-21047-3 )は、須磨子をはじめとし、貞奴、松旭斎天勝(奇術応用サロメ劇!)ら、大流行したサロメの系譜を論じていて非常におもしろい。図版も豊富。(つづく)