そろそろ梅雨入りという時期になって「学習をはじめる」もなにもないだろう、と訝る方もいるかも知れない。だが今回は、学習をはじめてしばらくしてから気になってくる、そんなキーワードと文献を紹介することにした。たとえば、近代の哲学・美学の流れの中で使われる「感性」、「悟性」、そして「理性」。芸術学の勉強をはじめた皆さんの中には、美学史の書物や哲学史の書物に挑戦している方も多いと思われるが、まず最初に躓きがちなのは、これらの近世哲学以来の用語なのではないだろうか。『源氏物語』を読みはじめたはよいが「須磨」のあたりでなげだしてしまう“須磨源氏”と同じく、カントやヘーゲルのあたりで美学史を一休みというのは、わたしにもおぼえがないわけではない。ここでは、日常的な使い方ではなく、いわば「哲学語」としての用例を確認することからはじめよう。
■ カント『純粋理性批判』(岩波版全集4,5,6(有福訳)上中下、または岩波文庫(篠田訳)上中下など) ■ 岩城見一『感性論──エステティックス 開かれた経験のために』(昭和堂、isbn:4-8122-0112-8、税別2800円)
近世ドイツの哲学、とりわけ影響力のもっとも大きいカント哲学の中で用いられる用語としての「理性」、「悟性」、「感性」は、まず認識経験のメカニズムを検討する文脈にあらわれる。つまりこれらは、認識に(直接・間接に)関わる“認識能力”として仮設されている。ここでの「感性」は(“感受性”のような日常の意味はなく)外界から質料を受け取る「受容の能力」である。そうして受けとめたデータに無意識のうちに「形式を与える能力」、つまり知識によってカテゴリー化する能力を「悟性」という。急いで付け加えておくが、これらの能力は、どこかに求められるようなシロモノではない。これらは、認識のメカニズムそれ自体という、われわれには経験できないものを合理性によって考え抜くためにカントが“仮説”した概念だからである。むしろ経験において両者は不可分に働いているとせねばならない。たとえば、妙に膨れたナマモノのデータが与えられたときに、同時にわれわれはそれを持ち前のカテゴリーに無意識のうちにあてはめ、「フグだ!」と認識しているのである。さて、カントは更に諸カテゴリーを統合する「理性」という「推理能力」を仮設している。この理性により、人間は諸カテゴリーをまとめあげ、経験をこえたより高次の規則を編成することができるのである。たとえば計算や化学といった規則のシステムである。この「理性」とシステムによって、われわれは経験をこえた視点を持つことが出来る。経験をこえて、この後起こる結果を思考できるのも、そのおかげである。死ぬ経験なしに「フグを生で丸ごと食べたら死んでしまう」ことが推理できるのはこのためである(もちろん、推理はときに誤りうるが)。ただし「理性」は認識に直接関わるものとしては仮設されていない。推理し「思考」することで間接的に関わるにすぎないのである。しかしながら、われわれの中では三者は混じりあって機能しているがために、われわれは思考して得られた事柄を、ついつい経験したかのように思いこんでしまう。カントはこの思考と経験の混同を回避するために、彼の批判哲学において、理性を別種の能力として仮設しなくてはならないのである。ともあれ、まずは図式的に「感性」=受容能力、「悟性」=カテゴリー能力、「理性」=推理能力と紹介しておこう。思想家によってニュアンスはさまざまに変奏されるだろうが、手がかりとして役に立つのではないかと思う。 なお以上は、本学で美学概論の教材となっている岩城の書物を踏襲した。その第一章「イメージの力」では、もっと詳しくまた厳密に論じられている。カントのテクストとあわせて、必ず参照していただきたい。
■ 巽孝之『メタフィクションの謀略』(ちくまライブラリー、isbn:4-480-05195-3、税別1408円)、■ 由良君美『メタフィクションと脱構築』(文遊社、isbn:4-89257-016-8、税別3398円)
大学に入って授業を受けたり専門書を読みはじめたりすると、もうひとつ、「メタ」という言葉をよくみかけるようになる。たとえば、「メタ言語」、「メタフィクション」などなど。もともとはギリシア語の前置詞 meta(〜の後に)に由来している。アリストテレスの『形而上学』(Metaphysica)は、後世の全集編纂のさいに『自然学』(Physica)の後ろに置かれたのでこう呼ばれることとなった。もっとも、われわれがこんにち頻繁に目にするものは、英語の接頭辞(〜について)になった後の用法である。つまり、「メタ言語」は「言語についての(言語)」といったように。そこでは言語の間にレヴェルの違いが設定され、対象となる言語と、それを扱うメタ言語の間に境界が設定される。そういった境界と階層関係により水準の違いを設け、無用の論理の混乱を回避しようとするのである。では「メタフィクション」とは? これも「フィクションについての(フィクション)」、あるいは「フィクションを対象とするフィクション」というわけである。物語のなかに更に別の物語が入り込んだり(シェイクスピアの芝居『ハムレット』のなかには、登場人物ハムレットが演じるまた別の芝居「ねずみとり」が入り込んでいる──これは芝居の中の芝居であるため、とくにメタシアターなどといわれたりもする)や、小説の中で、語り手や作者が小説の構造自体について言及したりする(たとえばスターン『トリストラム・シャンディ』、また安部公房『箱男』)など、われわれにはお馴染みの手法のことである。しかしメタフィクションは、(水準の違いにより議論を整頓しようとするメタ言語とは異なり)むしろその水準の違いを攪乱させるように振る舞うことが多い。フィクションの水準の違いは手に負えないほど錯綜したり、ときに整合性のないかたちで交差したりもする。スターンや安部の場合がそうだ。そうすることでメタフィクションは、われわれが当然のものとして前提する「現実 VS フィクション(虚構)」といった二分法と、それに支えられる「リアリズム」を動揺させようとするのである。巽の書物は、トマス・ピンチョンや筒井康隆の現代小説を取りあげ、それらが企む“リアリズム以後”の小説の可能性を論じるものである。由良の書物(特に所収の「メタフィクション論試稿」)はディコンストラクション理論を援用しつつ、18世紀以降の小説の展開に“メタフィクション志向”の必然を見出そうとする。 なお巽の書物は、『メタフィクションの思想』(isbn:4-480-08624-2、税別1100円)と改題されて、ちくま学芸文庫に入っている。大きな違いはないようだ。どちらでも入手が容易な方を手にとっていただきたい。
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