歴史記述と物語  ──構造史・物語叙述・リアリズム物語
 ブローデル『地中海』/バーク編『ニュー・ヒストリーの現在 歴史記述の新しい展望』/ヘロドトス『歴史』
若林雅哉 

 フランスの哲学者、P. リクールは、主著『時間と物語』において、時間性と物語性の相互依存──この健全なる循環によって双方は強化しあっていることを明らかにしようとした。つまり、時間は、物語という方式で分節されて初めて人間の経験となる。だが物語もまた、時間経験を描きだすことによって初めて意味と蓋然性を得るというのである。その構造は、歴史記述といった物語においても、(狭義の)フィクションといった物語においても変わらない。歴史記述とフィクション物語の構造の同質性は、リクールを離れてわたしたちの日常感覚に照らし合わせてみても、納得しやすい。浩瀚な歴史書に親しんでフランス革命の成りゆきを学ぶとき、わたしたちは革命に取材した小説を読むときと同じ高揚感をおぼえ、王妃の振る舞いに感情移入することさえ出来る。逆に、NHK大河ドラマ『春の波濤』(古すぎるだろうか)に身を委ねるとき、川上貞奴の生涯ばかりでなく、新派の黎明期ひいては明治の近代化さえ、大略、学ぶことが出来るだろう。歴史に取材した作品の諸相についてはいうまでもない(たびたび大河ドラマであるが、竹中直人が演じた秀吉は、朝鮮出兵をまたずに最終回を迎える。これは『独眼竜正宗』の秀吉=勝新太郎が、その死まで演じたときとは違う印象が意図的に狙われていたといえよう)。そのような無数の作品と同様に、第一次世界大戦の歴史記述も、1919年のヴェルサイユで終わるなら一つの印象を与え、またドイツの経済復興と1933年のナチス政権樹立まで続くとすれば、また別な印象を与えることができるだろう。だが20世紀の歴史家たちは、物語の重視に反対して「構造史」を提唱した。だが、依拠されるにせよ排斥されるにせよ、引き合いに出される物語が19世紀的なリアリズム物語であったことは、もっと気付かれてよいだろう。

■ブローデル『地中海』(浜名優美訳、藤原書店) ■バーク編『ニュー・ヒストリーの現在 歴史記述の新しい展望』(谷川他訳、人文書院)■ヘロドトス『歴史』上中下(松平訳、岩波文庫) 

 ブローデルを領袖とする「アナール学派」は、事件を物語る「事件史」ではなく、事件がその上に表面化してくるおおきな「構造」を明らかにするべきだと主張し、「構造史」を提唱した。物語叙述によるときには、政治上の大事件については、指導者層の決定を重要視されるため、歴史家は、指導者の決定に直接関与しないもろもろのファクターを捨象して単純明快な物語を構築しがちである。また、国家や教会、民衆などの集合体は、物語からは捨象されてしまうか良くても一般化されてしまう結果となる。このとき指導者と支持者はもはや区別が付かない。構造史からの物語への攻撃は、このようなものである。構造史家=ブローデルによれば、マドリッドからの命令の遅れは、「フェリペ2世が優柔不断だった」からよりも、「16世紀の船が地中海を横切るのに数週間かかったからだ」ということになるのである。ひとにぎりの指導者の決定よりもむしろ、社会の構造的な変化こそが、歴史を動かしてきたという信念がここにはある。だが、その構造に対しては、非時間的、ひいては非歴史的であるといった反論が寄せられているのも事実である。もっともブローデル以後も、前述のリクールは「構造史」にも物語性の介入を見出そうとしたし、アナール学派の中からも、構造を打破し新しい構造を導入する「創造的事件」の重要性を説くもの(ル=ロワ=ラデュリ)も出てくるだろう。
 バークは『ニュー・ヒストリー』所収の論文で、上述の対立(事件史=物語叙述vs 構造史=構造)について、歴史家が「単なる文学上の問題」として向き合わなかった「いかなる物語叙述を行うか」という問題を投げかけることで、両者の対立は統合されるのではないかと提案している。たとえばジョイスやヴァージニア・ウルフによる近代小説は、歴史の語り手に対する大きな挑戦になるのではないか。彼らの小説は、「時間的な連続」を解体しようと試みている。複数の視点を持つ小説は、たとえば内戦のような、複数の声が入り乱れる形式の紛争の記述のための技法を提供してくれるかも知れない、とバークは述べる。また、リアリズム以後の開かれたタイプの物語(結末を一義的に規定しないタイプの物語、たとえば複数の結末を用意する作家ジョン・ファウルズなど)は、歴史家の方法的反省にとって、むしろ好ましいものではないのか。歴史家は、もはや実際に起こったことの再構成を企てない。いまや「ある観点からの表現」といった解釈の意識は、歴史家にとっても前提となった。伝統的な線的な物語、一本の因果系列といった伝統的な物語は、いまや事件史陣営の歴史家にとっても胡散臭いのである。バークはまた、歴史家が日常生活の「構造」と、非日常的な「事件」の並置を可能にする物語叙述のモデルとして、映画の文法からの援用を提案している(バークは、黒沢の『羅生門』を、多角的視点からの技法として例示する)。もちろん、フラッシュバックや、ストーリーと場面の交錯は、安易に用いられれば読者の混乱を招くだろうが、事件と構造の関係の解明のための表現技法としていつか確立する日があるかも知れない。歴史記述が利用してきた物語の線的性質も、もともと、われわれが、ただ慣れ親しんでいるにすぎないかも知れないからだ。じっさい、古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは、線的な記述というよりも、ゲームブックのように錯綜する物語記述から、ペルシア戦争の原因と結果を記述しようとした。そこでは複数の選択肢が提案され、伝承が行き止まるまでその路線は検討され、また振り出しに戻るのである。ペルシア軍の遠征の通過点エジプトをめぐる第二巻は、そのような蜘蛛の巣のそこかしこに、小さな物語=説話がちりばめられている。
 なおバークの編著は、女性の歴史、口述資料とオーラル・ヒストリー、身体の歴史などにかんする論文をあつめている。そのうちの一本、ギャスケルの論文「イメージの歴史」は、いわゆる「ニュー・アート・ヒストリー」に興味のあるみなさんの期待にもこたえてくれるはずである。