<芸術>はもう用済みなのか? ─ ヘーゲル『美学講義』、理念の自己発展、「芸術終焉論」
 ヘーゲル『美学講義』/フリードリヒ、ガダマー他『芸術の終焉・芸術の未来』
若林雅哉 



■ヘーゲル『美学講義』(岩波版全集18a-19c、竹内訳『美学』9分冊。作品社、長谷川訳『美学講義』上中下)
■フリードリヒ、ガダマー他『芸術の終焉・芸術の未来』(勁草書房、神林他訳)

 ヘーゲルの哲学は「理念(Idee)の自己発展」という図式を根本に持つ。これこそが、初期ロマン主義思想のなかで彼の独自性を主張するものであり、またヘーゲルの「芸術形式の史的発展」という主張の基礎にもなっている。まず、当時の思想との違いを説明しよう。シェリングらの初期ロマン主義においては、理念(内容)とその現象(形式)は終始対立するものとして考えられている。芸術は、理念を現象のうちに啓示するものとして考えられるが、その断絶は根深い。美的直観のうちにその統一がはかられる(シェリング)としても、それは奇跡的な瞬間としてとらえられている。つまりここには、感覚的には決してアクセスできない超時間的・普遍的理念と、感覚に与えられながらも常に不十分な現象という、プラトン的な二元的な秩序が前提されていた。これに対して、ヘーゲルは次のように考えた。──理念は感覚的に現象されることを自らのうちに含んでいる。理念は、みずからの現象を否定していくことで、次なる段階へと発展していくのである。卑近な例で恐縮だが、たとえるなら、理念はわれわれの顔である。われわれは自分の顔を、鏡に映った現象としてしか見る。その中に否定的な契機を見出すや、われわれは眉を抜いたりして、新たな顔=理念の段階に到達するのである。しかし、理念の発展はとどまらない。やがて新しい理念の新しい現象=鏡像に否定の契機を見出し、レーザーを当てるなどして更に、われわれの顔=理念は弁証法的に発展を続けるのである。──このように、ヘーゲルの理念は、進んで感覚的に現象することを自らの規定のなかに含んでいるのである。
 この理念の動的な発展は、『美学講義』が論じる芸術史展開の把握の基礎にもなっている。ヘーゲルは、内容(理念)と形式(現象)のバランスから次の三段階を芸術の発展にみている。まず、古代東方(インド、エジプトなど)の諸芸術が示す「象徴的芸術形式」である。そこでは内容(スローガン「ファラオは偉い」)は未だ抽象的なものにとどまり、素材に対して暴力的で臨むとどまる(切りだされた石組によるピラミッド)。形式と内容の統一は未だ達成されない。しかし、理念は発展していく。やがて内容は具体的に充実していき、素材の形式に直接に姿を現す。これを「古典的芸術形式」といい、古代ギリシア・ローマで頂点を迎えるという。ギリシアの神々はそれぞれ独自の内容を豊かに持つようになり、美なる形式のうちに理想的な統一を示すというわけである。だが、理念の発展は止まらない。キリスト教近代を迎えると理念は形式との統一に満足せず、精神としての内面の深化を目指すようになる。これを「ロマン的芸術形式」といい、形式をうち破って進む理念の発展のまえで、芸術は下降線を辿ることになる。こうして理念の受け皿としては、芸術は、すでに終焉したもの・過去のものとなる。理念の発展が芸術の成立を難しくしてしまったのである。こうして精神が理念を芸術において把握していた時代は終わり、宗教の時代、哲学の時代が到来することになる。ヘーゲルはこのように史的展開の三段階を語り、芸術の終焉・過去性を論じるのである。
 もちろん、この区分には異論のある人も多いだろう。しかし、それはヘーゲルの体系のなかでの把握として受けとめるより他ないだろう。いや、むしろ親しくヘーゲルの『美学講義』に向かうならば、この図式から芸術史の様々なシーンが活写され、また建築・彫刻・絵画・音楽・詩が実証的に論じられる鮮やかさに目を奪われることだろう。むしろ問題は、「芸術の終焉」という判定をいかに受けとめるかである。たとえば、『芸術の終焉・芸術の未来』所収のガダマー論文「芸術の終焉? 芸術の過去的性格についてのヘーゲルの理論から今日の反芸術まで」は、芸術の過去性からの転換の契機、すなわち“芸術としての芸術”の現代性を認める契機がヘーゲルのなかに潜んでいると論じている。ガダマーによれば、芸術があてにできた自明性は既に失われたという。いまや芸術はその受容との対話的関係にあり、その関係を解釈学的に明らかにすることを、ガダマーはヘーゲルから引きうけたのである。
 ヘーゲルの邦訳は、読みやすい文体の長谷川訳でも、注が充実している竹内訳でも、いずれでもお好みの方を。ただ芸術形式の史的展開のくだり(第二部)、ジャンル論(第三部)については、豊富な注の竹内訳が役に立つのではないだろうか。