ここ最近、美学/芸術学を学ぶ人の中にも広告を研究対象とする人々が多くなってきた。広告を研究対象とする学問領域は多岐にわたるが、その中でも本書は、社会的/歴史的な観点から広告を論じるものである。 広告に関するこれまでの研究は、以下のような観点からなされてきた。まず、広告を、消費者に対して「買う/買わない」という行為の選択に圧力をかける装置としてではなく、「意味」を供給する媒体として位置づけた消費社会論、次に、広告の受け手は、広告の意味を能動的に生産していく主体とし、さらに受け手が広告の意味を解釈するうえで、葛藤したりするイデオロギー的構造を分析するようなスチュワート・ホールを中心としたカルチュラル・スタディーズの立場である。このような観点は、それまでの広告研究、すなわち、受け手が広告によって商品を買うのか、買わないのかといった測定や広告を見ること→商品を買うという経験的な観察を重視してきたマーケティング理論とは異なった文化的/社会学的アプローチからの議論であった。だが、この二つの観点は、広告の読解に長けた研究者だけがなしうるものであり、日常生活を考えた場合、それらはいずれも奇妙なまでに「大袈裟」である。 著者はこうした状況に素朴に反応する。「われわれは広告をそんなにマジメに見て/意味解釈しているだろうか?むしろ、全然マジメに見て/解釈しているわけでもないのに、ふと思い起こしてみると何となく総体としての広告が醸し出す世界に巻き込まれてしまっている、というのが実情ではないだろうか?」つまり、私たちが具体的に都市や雑誌、新聞などで広告を見ること=実際的な受け手の身体性を重視しようとしているのである。 広告を「夢の形象の帰結」として捉えたヴァルター・ベンヤミンの思考をふまえ、著者は、広告を《資本/日常》《広告である/広告でない》といった差異を曖昧にさせて、受け手の日常世界へと巧妙に滑り込んでくる「夢の装置」とする。私たちの意識は広告を見ても、それが広告であるのか、広告でないのかを意識することない深い「まどろみ」の中にある。だが一方で、広告とは、例えば駅の雑踏の中でポスターに一瞥を与える人のように、突如として自分自身の存在を晒して、私たちの遊歩する身体へと「飛び込んでくる」ものである。広告には、このように心地のよい「まどろみ」を覚まさせるような「目覚め」の契機としても立ち現れてくるのである。著者は、歴史的コンテクストから言説をとりだして、何をもって〈広告である〉とし、反対に〈広告でない〉としたのかを追う。それと同時に個々の広告と具体的な受け手の身体との関係から広告のあり方を探っていく。このような作業を、歴史的な流れの中から捉えようとするのである。 本書はまず、近世における引札や近代において初めて現れる新聞広告を取り上げて、広告として自律した情報領域を獲得していく様子を示す。次に、明治後期における三越百貨店のポスターに代表されるような「美人画ポスター」やそれに対する1920年代の広告学研究者による批判を取り上げて、広告にとって重要なのは、受け手の関心を首尾よく喚起させることであることが認識されていく様を明らかにする。最後は、1920年代から30年代における婦人雑誌の中の広告を取り上げて、記事と広告がその境目を切り崩し融解していく様子を描きだしていく。本書は、これまで論じられることが少なかった受け手の身体性に着目することによって、広告の、一筋縄ではいかない捩れたあり方を生き生きと描写し、広告に関する論考の新たな側面を教えてくれる。
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