公共空間に設置される彫刻作品について
 1995年度卒業論文
目黒育実 


 近年開発される町の一つのテーマとして彫刻作品等のオブジェやモニュメント、おもしろい形に作られたベンチや案内板等、都市としての機能ばかりでなく遊び心や、美観といったものにも力が入れられている。町が楽しくきれいなことは人間にとって気持ちの良いことだが、安易な取り入れられ方をして月日と共に風化し汚らしくなったり時代遅れになったりしないように、町が時を経ることによって徐々に完成していくことを念頭に、長い目で見て馴染んでいくだろうというものを選択し、大切にしていかなければならない。芸術作品や芸術的な要素を持つ野外家具が、不特定多数の人の行き交う公共空間に置かれるとき何が重要になってくるかということを、過去の公共芸術作品を振り返りながら考えたい。野外に設置される芸術作品には絵画や決められたある一定の期間置かれるものなど様々だがここでは野外公共彫刻作品(設置されるときは場所移動や取り壊し予定のないもの)について考えようと思う。


 野外公共彫刻の歴史を振り返ってみると、世界最初の文明時代まで遡る。古代エジプトにおいては現在ならばランドマーク、まちの目印、ともいえるピラミッドやオベリスク(註1:Obelisk)が信仰のもとに生まれ、オベリスクなどはランドマークとしても今でも存在し、現代の町にも不思議と溶け込んでいるように思える。メソポタミアなどは、戦いやそれによって発生する権力の象徴として記念碑的な意味を含む宮殿やそれら建築物に施される浮彫など多くの彫刻が残っている。ヨーロッパでもヘンリー・ムーア(Henry Moore1898~1986)が野外彫刻を作る際に影響を受けたというストーンヘンジの巨石(註2:Stonehenge)が現在は謎につつまれているがそのころ制作されている。

 古代ギリシアにおいては人間像が多く造られ、宗教と関連して発達し、男女の人像は神への奉納物として、あるいは墳墓の上におかれる記念碑として制作された。ギリシャ人は美しさの数的なバランス、調和を一つの美の基準としており、肉体の美しさにも究極の理想形が求められた。

 その後個人に的を絞ってつくられる肖像彫刻が紀元前350年頃から制作されるようになり、かつては神の彫像が立てられた墳墓の頂上に自らの像を立て、それによって権力を表現するという外面的なものだけでなく内面に個人としての感情を含む人間像が制作された。肖像彫刻は現在ではあまり作られないように思うが、過去には偉人や企業、学校創立者などの尊敬に値する人間の栄誉を長く後の人に伝え讃えようという意味でよくあったものである。少なくとも最近では誰か個人を銅像にするなど流行らないし、誰かを強く尊敬するというような考え方自体薄れてきているように思える。

 ローマ帝国は文化的にはギリシャの大きな影響下にあり、ギリシャほど独創的な文化をつくることができなかったといわれているが、土木建築など実用面に優れ多くの公共建造物をつくったり、伝統的価値の回復の一環として古い神殿の修復がされるなど、ここでも皇帝の力を示すものとしてまちづくりが行なわれていた。

 キリスト教が広まる中で大規模な建築計画をしたのがローマ帝国である。聖ペテロの墓に想定した場所に、コンスタンティヌス帝が計画したサン・ピエトロ旧聖堂は、15世紀末まで存在し、キリスト教の精神的首都としてのローマを視覚的にも印象付けたといえる。キリスト教の普及は彫刻の表現にも変化をもたらす。神の非現実的な絶対の力を表すために神秘的な表現というものが開拓されたこと、ガラス製モザイクによる壁面装飾の発達といったもの等キリスト教の理念を表すために美術は大きな役割を担い、それに伴って内容も充実させてきたといえる。

 このように、まちづくりや彫刻設置などの事業はそれまでほとんどが権力者の手によって支配的に行なわれてきたといえる。

 10〜12世紀に彫刻が建築を飾るロマネスクと呼ばれるローマ風の建築スタイルが生まれているが、彫刻活動、建築計画において興味深いのは12世紀ごろからの北イタリア特にフィレンツェのあたりで、ヨーロッパのぜいたく品の需要や、教皇庁と神聖ローマ帝国との権力闘争に乗じて利益を得、毛織物工業でも知られており、富みに栄えて自治権を獲得した新興市民階級は、行政管理と勢力均衡をたもつため行政組織をつくった。その中での財産に対する課税は国家資金となり、その後の建築の流行の資金源になる。これらの新興都市商人たちの支配者層は、贅を凝らした聖堂をつくることを最も威厳のあるものととらえ、富の象徴とした。聖堂建築の依頼と財政に関する責任は教会ではなく力を持った自治都市に委ねられており、市と同業者組合からなる大聖堂運営団体(オペラ)とよばれる組織がほとんどの建設までの過程を受け持ち、聖堂の外観に関する大きな決断については市民に採決をとった。そしてその他の建築に関する補足的部分は、画家や金工細工師など専門家の意見を聴くということがされた。

 このような市民中心のシステムがあったことは驚くべきことである。この彫刻作品を設置するための一連のシステムは、キリスト教信仰があって初めて起こるものであるが、宗教信仰の一つとしての設置ではあるものの設置すること自体には、裕福な市民の富の象徴と信仰の象徴という二つの意味を持つ美術奨励活動で、しかも個人の押しつけではなく多くの市民や専門家との相談のもとに、裕福な市民たちとはいえ、都市国家として自分たちの目の高さで、横に広がる輪で、つくりあげる最初の運動であったといえるだろう。このような基礎がヨーロッパには早いうちから存在し、現在の人々にもつながっており、町の美観にうるさいという、日本にはない姿勢があることは言うまでもない。

 その後多くの都市国家や君主国が分立して絶えず争いをくりかえすことになり、政治の混乱と社会経済の変化の中で中世的な価値観は揺らぎ、新しい生き方や考え方が求められる中で古典古代の自由な生き方や文化に目を向けるようになり、ルネサンスが開花するにいたる。このまさに芸術の黄金時代ともいうべきおよそ2世紀のあいだイタリアでは現存する多くの宗教建築、彫刻絵画作品が制作される。このころ制作された作品は現在でも各地でみられるが、建築と彫刻が違和感なくはまっていることは建築と彫刻の並々ならぬ関係を感じさせる。

 17世紀から18世紀の美術は絵画が全盛であったといえるが、豪壮華麗なバロック様式の影響で彫刻は建築と装飾技術とに強く結びついてヴェルサイユ宮殿などを生み出し君主の威光を輝かせ、繊細で優美なロココ調のころにはサンスーシ宮殿(註3:Sanssouci)が建てられるなど一部の豊かな権力者たちによって美しく華麗なものは独占されていたといえる。そのため装飾品として表面的に美しいだけで満足される彫刻に新しいものはあまり生まれなかったといえる。このことは、現在の野外公共彫刻作品が陥りがちな、美しさへの逃げ、美しいことの当たり障りのなさともいえるつまらなさ、の記憶とも言えるだろう。素晴らしく美しい、素敵なもの、きれいなものという一面だけで語り尽くせぬものを持つことが美術のもうひとつの扉を開けることでもある。彫刻が美しく整えることだけを目的としない、技だけに満足しないものであることを覚えておかなければいけない。


 ロダン(Auguste Rodin1840~1917)の出現により19世紀末、彫刻の世界に新しい風が吹き込むことになる。塊に集約させることから空間で感じる印象の世界、目に見えない精神的な力の表現への扉をひらいた彫刻芸術は空間性を追求することに新しい方向をみいだし、ブランクーシ(Constantin Brancusi1876~1957)ジャコメッティ(Alberto Giacometti1901~1966)、などの彫刻家が活躍するにいたる。
 20世紀に入って現在の野外公共彫刻作品のさきがけと言える作品をつくったのがコンスタンチン・ブランクーシだったといえる。 1938年7月に完成したルーマニアの「無限柱」(写真:1)は、第一次大戦中に兵士として戦った老人、女性、子供たちを記念してモニュメントとして計画されたものだった。まず、当時のルーマニア首相夫人であったアレティアテテレスクが地域の文化と産業を新興させるための重要な組織であるルーマニア夫人連盟の会長として計画、尽力し、製作費等の費用を全額この団体が請け負い、以前から故郷であるルーマニアの地に作品をつくりたいと考えていたブランクーシ本人の願いが叶った仕事でもあった。そのためブランクーシはこの地を訪れて作品のイメージを膨らませ制作した。このことは依頼を受けた一彫刻家が野外公共彫刻を制作する上で最も重要なことだといっても良い。現地をよく知ることは作品の設置される環境を知ることである。彫刻が空間で感じる、広い影響力を発する作品形態を持つことを考えれば、同じように環境も作品に強く影響し得るものとなる。その相互が響き合うことで、野外公共彫刻は完成を迎え、また、野外の、公共的な空間に置かれることの意味を持ち始めるのである。ブランクーシは、芸術として自分を自覚した芸術作品を公共の空間に設置したという意味で、新しかったといえるだろう。芸術として自分を自覚した芸術たちは、少なくとも日常生活における風景のなかでは異物であったはずだ。それまでの野外彫刻の本質的には消極的とも言える在り方、例えば装飾として、象徴として最も優れたかたちという存在から、自らも積極的に主張しながら、周りの環境とも調和し、刺激し合うという関係を築き始めたといえる。これらの意味で、ブランクーシのこの仕事は、現在の野外公共彫刻を遡る上で、ずば抜けて早い例であり、しかも、様々なポイントをおさえたものだったといえる。


 新住民たちが住み着いたアメリカは野外彫刻の歴史以前に国民の歴史というものが浅かったといえることもあって、19世紀中ごろから数多くつくられた兵士や英雄、政治家等の個人を讃えるか偲ぶための、アメリカの歴史を刻んできたとも言える活動と、墓碑彫刻が主流であった。野外公共芸術が、現在のようなかたちになるために経てきた過程で、1960〜70年代のアメリカにおける近代化と、芸術支援の政策は目覚ましいものだったといえる。1960年代のアメリカは第二次大戦後、軍事、経済の勢いがキューバ危機やベトナム戦争などの問題で次第に弱まってきた時代だった。国内でも人種差別抗議運動が激化、長引くベトナム戦争に全国的な平和への運動が起こるなどの政治的に苦しい状況におかれていた中で都市の再生化が計られた。1935年大恐慌時代に芸術家救済のためルーズベルトによって施行されていた連邦美術計画(Federal Art  Project)によって育ってきたコンテンポラリーの芸術家達の活動がアメリカ都市再開発の際に芸術支援の成功例となって1963年公共施設監理庁(General Service Administration)の「Art in Architectur」政策に少なからず影響を与えている。支援によってアメリカがアートの発信地になるほど新しい展開を見せ芸術家が育ったという自信が次のステップとも言える政策に結びついたのである。まず良い芸術があって、初めて野外公共芸術は必要とされ、内容も伴うということが言える。このようにアメリカは政府主導の美術機関を持っているわけだが、その機能の仕方は地域社会と密着し自主的な運動を起こさせるための手助けをする機関だったと考えたほうが良い。これは中世末期のイタリアの都市国家が市民や組合の盛り上がりによって美術品を国家の財産としようとした動きにも似ている。


 日本における、公共空間の共有ということでいえば、村の鎮守様道祖神、寺社等の宗教的なものくらいしか思い浮かばない。新しいもので言えば西郷隆盛像、忠犬八公等が国民の理想としてシンボリックに設置され、現在ではどちらかといえばランドマークとして親しまれているが、長い歴史から言えば、日本は工芸品などの実用的なもの、欄間の細工や陶芸茶道具等、不特定多数の人が共有するというよりは身内や知り合いの中で楽しむというものが多く、仏像彫刻等の宗教的役割を持つもの以外は個人的で小さなものを鑑賞の対象としていたように思える。もちろん寺社等の建築物、城など庶民の心のよりどころとなるものはあるが、ヨーロッパのように建築物に付随して建物の豪華さを煽るような彫刻の在り方はなく、造形的な美しさや装飾などは建物自体に盛り込まれていたと考えられる。また鑑賞という意識はあまり芽生えず、美しさを楽しみながら使用するというような関係を持ってきたといえる。

 浮世絵、歌舞伎、芸能等の遊びの文化、茶道、生け花等の精神的で一時的な文化には独自の世界を作り上げたものの、永遠に存在する物体という概念はなく、季節により、時代によって変わる生活のなかに織り込まれた楽しみの一つとして美しいもの、芸術的価値を持つものを享受してきたといえる。それには日本人が四季を持つ土地に生き、湿気の多い夏の暑さをしのぐために木の家に住み、そのため夏の終わりには台風に吹き飛ばされ、乾燥する冬には火事を出し、豪雨に見舞われれば流されて、地震がくればつぶされるという、様々な自然災害の危険性を持ち、何事も無くなっては作りなおす繰り返しを重ねてきており、自然のそのような力に勝てるなどと思ったこともなく、変化する地に身を置いてきたことが、美的なものに対してもずっと同じものでなく、その時々の状況により変化させてその時を楽しめることに美しさを感じるようになってきたのではないかと思う。


 広い町のなかに、一つや二つ芸術作品を置いたところで何も変わりはしないと思う人もいるだろう。日本ではもともとそのような考え方がなかったわけだから今西洋の姿をそのままそっくりまねしても、うまく既存の町に溶け込めるはずもなく、それどころか異質のものとして敬遠されてしまうということもになる、本来は、美術館すら西洋的なものとして、分かりづらいものとして、ある一部の人たちが利用しているにとどまるのに、公共芸術についてまちづくりに彫刻作品を取り入れる際に話し合いが必要だといわれてもそもそも何を話し合えばいいのだろうか。

 その一つに、設置後の撤去問題がある。モニュメントなどの何かをシンボリックに讃えるものが時代変化によって意味が変わり撤去の対象となる場合と違って、ここ30年あまりの、いわゆるまちづくりのための野外公共彫刻においては、芸術の素材や形態等の多様化に伴って既存の街にそぐわないものとして撤去対象になり得る場合がある。例えばアメリカでは1981年にニューヨークのマンハッタン、フェドラルプラザに設置されたリチャード・セラ(Richard Serra)の「傾いた弓形:Tilted Art」が、長い話し合いの末に1989年撤去されるという結果になった。黒く壁のようにつづく作品は見通しを悪くし、市民から苦情がでたわけだが、その際およそ8年に及ぶ話し合いが持たれたことは興味深い。このとき話し合われた大きな点は、芸術として設置されたものが、見通しが悪いとか暗いとかいう便宜上の理由で簡単に撤去されていいものかという問題についてであった。

 このような問題はおそらく美術館のなかにある作品については起こり得ないことだろうし、芸術のための芸術が追求されだしてからは誰かのための芸術ではなかったわけだから、芸術家は批評などの作品についての言及以外は自分の創作活動を人にとやかく言われることはなかったし、ましてや芸術的な価値の問題以外の面で撤去の対象とされることなど思いもよらなかったに違いない。このことはいかに美術館の中というものが特殊な空間であったかを物語る。美術館に慣らされていたものにとっては外の公共空間の方がよほど特殊であるかもしれない。だが、もともと芸術がもっとオープンな場所にあり、美術品ばかりを一ヶ所に集めて飾るなどということをされていなかったことを考えれば美術館に収集され、一括して展示されるほうが新しい概念なのである。自己表現としての芸術を追求する作家にとって美術館という環境はとても適しているといえる。無の空間に他の雑音に邪魔されることのないイメージを観る者に与えることができる。美術のための空間であるのだから当然のこととも言えるが、無菌室みたいなもので、あらゆる価値観にもまれることが無くなっているようにも思う。美術を理解してくれる人にばかり露出するのでは結局どこにも刺激がないような気がするし、もしも美術がわからないと思っている人が観にきたとしても、芸術作品を扱っている美術館というだけで敷居が高くて素直になれないような、そんな感覚があるように思える。

 野外公共芸術作品はその点で開放的である。無理なく日常に入りこむ彫刻作品、身構えることなく触ったり時には子供が遊び、乱暴にすることもある。誰がつくったとか題名は何だとか押しつけがましいことはなにもなく、季節や天気によって、時間によっても次々と違う表情をみせ、その場を毎日利用する人にとっては知らないうちに芸術作品と観るものの関係ができあがり、観るものは真の意味で作品を自分なりに理解し解釈している。これは理想の形であって全ての作品がこのように存在できているとは言えない。だが作品の設置場所、作家等の選択を誤らなければこのような効果を上げることができるはずなのである。話を戻すと、アメリカのリチャード・セラは芸術のための芸術、自己表現としての芸術を追求していた作家であり、町のため人のために設置される野外公共彫刻作品の作家ではなかったのである。このことを考えると、野外公共彫刻は、単に美術館から新しい表現場所を求めて飛び出してきたというような単純なものではなく、室内彫刻と、野外公共彫刻では、形態は同じでも、全く違うところにポイントが置かれているものである。


 現在日本では野外彫刻などのアートを町の再開発、開発に組み込む計画が多く行なわれている。1994年に完成をむかえた東京都立川市における市街地再開発事業は「立川ファーレ」の名のもとに日本における野外公共彫刻作品の最近の取り組みの一つとして興味深いものであるといえる。立川市は米軍基地のあったまちという良いのか悪いのかわからないようなイメージがあり、競艇場を持っているということからか、広い緑地などがあるにもかかわらずさわやかな印象が薄いまちであったように思う。それらの自然と出来上がってしまったものから逸脱して、立川市の新しいアイデンティティを示そうとするアートへの取り組みであったと思う。その作品の設置には、シンボルとしての大きな作品というよりは街ぐるみでアートを取り入れようとする事業計画であることが窺える。36カ国92人の作家による作品109点を都市の森をコンセプトに設置した。まちの表情を軽快にするというこの計画には野外公共彫刻だけでなく、機能を持つもの、例えば換気口であったり、排気塔、標識、車止め、散水栓などのまちに必要なものに、アートという付加価値を付けたという場合もある。立川市の場合完成後の宣伝活動にも力を入れているということもあり、新しいわりに知名度も高く立川のイメージを他の地域の人に与えるという意味では成功しているといえるだろう。しかしながら、市民の評判は必ずしも良いとは言えない。

 立川の取り組みが良いか悪いかは別として、日本人はすぐに役に立たないことに力を入れたがらないという傾向があるといえる。野外公共彫刻が存在するまちで、アートに触れながら育った子供にはどんな影響があるか、大人にとっても生活のなかに遊びの部分があることで心に影響が考えられないか、など、これは野外公共彫刻の存在に限ったことではないが、周りの生活環境が人間の考え方や、生き方にまで関わってくるだろう、ということに関する意識が薄く、目先の利益や効果に気持ちを奪われがちである。

 日本でこれまで企業ビルに付随してつくられたり、クローズアップされてきた野外公共芸術作品は商業的、広告的要素を多分に含むものであった。例えば、作品設置時に芸術作品を公共的な場所に設置することそのものに重要なポイントが置かれず、プロジェクトなりなんらかの企画の他との差別化をはかるために行なわれてきた傾向が強いということがいえる。なぜ差別化できるかといえば、日本において芸術は一般的なものではなく、感じ取ることが最大の目的とされず知ることのほうに価値が見いだされて、知識としてとらえられている面が大きいようなところがある。そのため芸術はある一部の人にはインテリジェンスの象徴のようにさえなっていると言えるだろう。したがって、事業に芸術という要素をとりこむことはその事業の高級化をはかる上で日本においては有効であるということがいえる。しかし内容の伴った作品を設置することができれば予想以上の成果が期待できるし最近では議論が進められ、そのような価値観のもとに作られているものばかりではないという考え方の変化も見られる。

 受け手にとっては日常の中で芸術という感覚の世界に触れられるというもので、どのようなことを意図して誰が設置したかというようなことはあまり関係ないことである。しかし野外彫刻の効用としては内容等の差はあれ、設置主はそれによってもとの街なり、建物なりを芸術のある空間として、先に述べたようなイメージアップを計ることができ、注文を受けた作家は私的な表現を追求したい人は別として、スポンサーが付き、その後ろ盾によってより開かれた場所でより多くの人に作品を見せることができるという、公共空間に興味のある人にとっては面白い仕事であるだろう。そして作品を提示される側である人々は、普段美術に触れることのない人もお金を払うことなく芸術作品に触れ親しむことができ、美術館監視員のいない開かれた空間で好きなように楽しめるという身近な感覚を持てる。その反面、作家にとってはいつもの私的な表現というものをそのまま大きくすればいいというものではないし、万人受けするものをねらうのでは、つまらないものになってしまう。工芸を職人技と考え、デザインを何か目的のあるものを造形的に整えることと考えれば、野外公共彫刻はそれを越えた何かを備えていなくてはならないだろう。

 デザインや工芸を越える何かとは、言葉にできない部分ではないかと思う。それは人がぞれぞれに感じることで、ある種の感動だともいえる。野外公共彫刻作品などの場合、作品との個人的な関わりというものが自ずと生まれるものである。例えばふと家路を思い描くとき、自分の家の帰り道にある彫刻作品は自分のテリトリーの中にあるものである。人間は大体行動範囲が決まってはいないだろうか、時には知らない場所にも行くが日常では特別な仕事でもしていないかぎり会社や学校と家の行き帰り、よく立ち寄る店など人の通る道は一筋である。その人のテリトリーとも言える行動範囲は、その人にとっては自分の場所のようなものである。その中に野外公共彫刻がある場合それも自分のテリトリー内のものになる。この場合作品と人はいつのまにか対話をする。別に気にも止めていなかったとしても、ふと思い出す。あるいはもっと鮮明に記憶している。そんな気持ちにさせるある種のものへの愛着、感情移入、それをさせる人間らしさ、が芸術にはある。

 日本に入ってきた野外公共芸術作品の手本といえるアメリカでのそれらの動きは、急速な近代化にも沿ったものだった。近代建築の無機質な冷たさに人間らしさを加えようというもので、殺伐として来つつあったアメリカという国が抱える多くの問題に基づいて、国が支援するかたちで住民等の手のもとに進んだ。しかし日本では、企画から設置、管理などすべてにおいてほとんどの場合与える側が主体となっており、住民は与えられるままに受け入れている。最初は多少反感があっても時間が経つにつれて慣れ、最終的には愛着さえわいてしまうというような、良いのか悪いのかわからない、曖昧な態度の結果、どんなものでも居座ってしまうという野外彫刻に対する一見無関心な姿勢を感じてしまう。

 だからといって、日本には合わない、定着しないものだと決めてしまうことはまだできない。生活のスタイルは日々西洋化、というよりは先進国化しており、日本のスタイルは、精神性にわずかに残されているだけだといっても過言ではない。アメリカが、1960〜70年代に再開発事業に伴って公共芸術をアメリカ的に取り入れられたことを考えれば、日本も、日本的な表現方法なり、取り入れ方があると思えてならない。このことは芸術家自身が考えることであると共に設置される場所に住む人々、設置する事業者、専門家等が積極的に考えていくべきことである。しかし設置する段階では、日本人の役に立つことを価値と考える傾向などから、なぜ設置すべきなのかをわかり易くする必要があるし、それにともなって設置する側もなぜ設置するかを広く知らせ、内容もそれに添ったレベルの高いものにしなければならない。このことが、野外公共彫刻作品という彫刻作品の作家の仕事を高めることであると共に、日本人の西洋からの芸術への理解を深めることであると思う。

 どんなものであるにせよ優れた野外公共芸術作品は、地域の人の所有する財産となるものであり美術館へ行かなくても、高価な芸術作品を買わなくても、日常生活で触れることのできるものなのである。そこではある時は子供が遊び若者がつどい、またある時は家路につくサラリーマンの心を癒すものでありうる。野外公共芸術作品の昨今の盛り上がりはそのような生活に密着したアートの在り方が日本に提案されていることなのであろう。


 彫刻は、台座以外に取り立てて周りの空間と作品との境界のない三次元の造形物である。人間の現実の空間と同じ量感を持っているとことによって、周囲の環境とのより密接な関係を持ち、ロダン以降の作家たちがそれを意識する以前から自然と公共の場に置かれ、人々にとって象徴となるものとして存在してきた。

 長い目で見て設置されるものは、時間が経つにつれて作家のものでありながら設置されている環境との関係を深めていくということが言える。近年の屋外でのインスタレーション、イベントのように行なわれるものの場合時間による周囲との関係の深まりは少ないが、より強いメッセージやタブーを盛り込むことが可能である。しかし野外公共彫刻作品のように動かないもの、動かせないものは、環境に強い影響を与え得るというもともとの性格上環境に受け入れられることが必須である。そうでなければ撤去されることは前述のとおりだが、象徴という役割に止まらなくなった今、公共空間に内側から刺激を与えるという要素が求められていることも確かである。そのバランスを備えていることが現在の野外公共彫刻に必要とされていることで、しかもどちらにも中途半端な状態にならないことが重要だろう。

 その点では作家の向き不向きがあるといえる。設置主がいること、屋外であるという物理的な条件などからある一定の枠というものはかせられるが、作家の表現活動であることは変わらないわけで、その中で満足のいく表現ができるかできないかは、ほかの造形活動と同じことである。しかし公共の空間がそれを受け入れるか否かは、先に述べたとおり芸術としての価値以前のところに基準がある。 このようなことから、設置主は実績のある作家を使いたがる。費用は莫大であり、撤去されるかもしれない作品に投資することは賭けのようなものになってくる。そのため作家の選択が保守的になってしまうのだ。それを避けるためには、実験的な公共空間への芸術の参加が必要であるだろう。実際各地でまちづくりや野外彫刻をテーマとした催しやコンペが行なわれているように、公共空間への一時的な設置がもっと行なわれていいと思う。前述のインスタレーション的なものでもいい。日本のあらゆる表情を持つ公共空間と調和するものを模索し、取り入れていくことから日本らしい姿を見つけることができるのではないか。

 1960年から70年のアメリカで野外公共芸術が政府に奨励される以前に、アメリカの芸術のおこりがあったことを考えれば、今さら後退するということでもあるように感じるが、経済成長の追い風に乗って進められてきた日本でのまちづくりにアートをという考え方は、豊かな時代の流行で終わってしまいかねない。

 中世ヨーロッパにおいてもアメリカにおいても野外公共芸術の発展が国として問題を抱えていた時期にあったことを思えば、するなら今だし、しないなら定着しないものなのかもしれないと思うのである。

 そして、より美術館の中の表現に近い強い個性を持った活動が公共空間に出没することによる、人々の芸術への理解、位置付けの変化が起これば、それが今後の日本における野外公共芸術の方向を指し示すものとなるのではないだろうか。


註1)Obelisk:古代エジプトの太陽神を象徴する一本石の四角柱。先細で、ピラミッド型をした頂上に黄金がはりつけられ、本体と基台の表面に奉献の銘文が刻まれている。

註2)Stonehenge:イングランドのウィルトシャーのソールズベリー平原にある巨石文化(新石器時代から金属器時代に及びヨーロッパ、近東、アジアなどに広く分布したmegalit「巨大な石」の名で知られる文化)の大遺跡。語源はサクソン語のStanhengest、「吊り下げられた石」の意。本来直径141mに及ぶ円環を外縁とする三重の円環構造をもつ墓地ないし聖所で、その中央部には二重円環状に立石(メンヒル)が配置されている。

註3)Sanssouci:プロイセン国王フリードリッヒ大王(FriedrichU、在位1740~86)の離宮。大王自身のスケッチに基づいてクノーベルスドルフ(Wenzeslaus von Knobelsdorff)が1745~47に建造。

参考文献

『世界の広場と彫刻』 企画制作/現代彫刻センター 中央公論社 1983

『世界美術史』 メアリー・ホリングスワース著 中央公論社 1994

『コンスタンチン・ブランクーシ』エリック・ジェインズ著 美術出版社 1991

『HIROBA '95』 東京都情報連絡室広報広聴部出版課発行 1995

『新潮 世界美術辞典』 新潮社 1985

『Richard Serra's. Tilted Art』Van Abbemuseum Eindhoven, 1988