三宅一生論
 1996年度卒業論文
奥野真紀 

序論

 ファッション1も一つの造形である。それも特殊な造形である。従って、これを論じる場合には、作品の造形に影響を及ぼす、ファッション特有の要素を整理しておく必要がある。

 このファッションという分野にあって、デザイナー三宅一生はこれまで、独自のテーマを幾つも発見し、それに従って実に多様な作品群を形成してきた。「第二の皮膚」、「ジャポニスム」、「一枚の布」、「プラスティック・ボディー」、「シリコン・ボディー」、「タトゥー・ボディー」、「プリーツ」などは中心的なテーマ、及び作品となってきたものである。これらは互いに造形的に全く掛け離れたものであったり、また「プラスティック・ボディー」など作品自体が服というよりもオブジェに近いものもある。このような多様性の中に、一貫して通底する三宅一生特有の造形性というものは存在するのだろうか。既に三宅一生論として「ジャポニスム」という括り方が主流の一つとしてあるが、それで彼の造形性は総括されるのだろうか。

 本稿で私は、ファッション特有の前提条件を示した上で、三宅一生のこれまでの仕事とテーマを年代順に振り返る。そこで三宅一生特有の造形性を見つける為に、ファッションにおけるジャポニスムと定形について考察し、被服空間という作品間に共通の座標軸を設定する。最後に三宅一生のファッションというパラダイムを描き出すことを試みる。

 
1.ファッションという造形の前提条件

1.−(1)ファッションという造形の特殊性

 ファッションは服作りという造形である。また、作られた服は実用品である。ファッション業界は流行という消費メカニズムを生む商業であり、場所によっては国家的な産業である。

 その服の実際の役割(パーティードレスかホームウェアか等)、市場(購買層、価格帯等)、業界のシステム(オートクチュールかプレタポルテか等)、ファッションにおいてこれらは、服という作品の造形を左右する要因となる。また、現在ファッション界は一つのメゾンがオートクチュールとプレタポルテ、プレタポルテの中でも、高級感のあるライン、カジュアルなラインと細分化された複数のブランドを揃えて、より幅広い市場に対応しようとしている。また一人のデザイナーが複数のメゾンのデザインを担当することもある。実際に、同じメゾン、あるいは同じデザイナーの作品として、基本的な同一性以上に、造形的にかなり方向性の異なる服が多く存在する。

 あるデザイナーの造形性を論じようとするときには、作品である服の実際の役割、市場、システム、デザイナーとメゾン、メゾンとブランドの関係を考慮にいれなければならない。 

1.−(2)オートクチュールとプレタポルテ

 現代ファッションにおける二大システム、オートクチュールとプレタポルテを、ファッション特有の要素として整理しておく必要がある。これは、ある作品を他のものと比較する場合の問題点となるからである。ただし、両システムの成立と定義について、服飾史的に述べる余裕はここには無い。そこで現状として両者はどう区別され、共存しているのか、フランス・クチュール連盟会長ジャック・ムークリエ(Jacques Mouclier)へのインタビュー記事の一部を引用する。

 「今はオートクチュールと同じくらい質の高い服がプレタポルテで作られるようになり、しかも値段が安いわけですから、オートクチュールが減るのは当然のことです。今なおオートクチュールが存在していること事態が奇跡なのです。オートクチュールといっても、オートクチュールのメゾンはプレタポルテ部門も持っており、三つのライン(8万フランのオートクチュール、1万5000フランの高級プレタポルテ、4000フランの一般的なプレタポルテ)で成り立っているので生き残ってこれたのです。例えばイヴ・サンローランでいえば、オートクチュールの〃イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)〃、二つめが〃イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ(Yves Saint LaurentRive gauche)〃、三つめが〃ヴァリアシオン(Variation)〃に相当するラインです。(中略)オートクチュールというのはお客様に応じて作る特別注文仕立てのことで、経営的にはいつも赤字です。それだけでは事業としては全く採算がとれません。それを補っているのがプレタポルテやアクセサリー、香水です。オートクチュールはむしろ、メディアやアート的な性格で存在しているのであって、そのおかげで香水やアクセサリーが売れるのです。オートクチュールはそのための一種の投資と考えられています。(中略)オートクチュールのメゾンで、例えばサンローランなんかはインターネットでコレクションを既に流しはじめています。オートクチュールは作ったもの自体で勝負しますし、コピーされる気づかいはありませんから。それに、オートクチュールのアトリエはパリにしかないので。そこが、プレタポルテの場合とは全く違います」2

 このような状況下で三宅一生のプレタポルテと、例えばイヴ・サンローランのオートクチュールを無条件に比較の対象にできるかどうか。その答えは微妙である。市場も服としての役割も違うものを比較の対象にはしにくいからである。

 しかし、服飾史的には別の見方もできる。高価な素材、熟練職人の高い技術力、オートクチュールは「モードの実験室」と呼ばれ、1950年代まではファッションにおける絶対的権威であった。これに対し、1960年代からは一般大衆に向けて、伝統に囚われない自由な服づくりのプレタポルテが台頭。現在、パリ・コレクションと言えばプレタポルテ・コレクションといってもよいほどである。この視点によれば、オートクチュールもプレタポルテもファッションの歴史である「新しいファッションの創造」という理念において同等である。従って両者の比較に意味があることになる。

 オートクチュールとプレタポルテについて、その政権移行の真っ只中で仕事をしてきた三宅一生は、次のような発言をしている。

 「1968年の革命で私は自分の信念を確信し、それが本物だということを知りました。それ以前は、ファッションなんていうものは特別の人々や特別のものだけに属するものだと考えられていましたが、私はそんな一部の人たちだけのものにしたままでよいのか、と疑問を抱いていたわけです。」3

1.−(3)「ISSEY MIYAKE」

 三宅一生はオートクチュールは扱わず、プレタポルテとして服作りをしている。三宅デザイン事務所(MDS)は、三宅一生の名前のもとに、「ISSEY MIYAKE」 、「ISSEY MIYAKE MEN」、「Plantation」、「ASHA by MDS」、「ISSEY MIYAKE PELMANENTE」、「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」、「ISSEY MIYAKE PLEATS」、下着やタオルといったライセンス製品等、複数のブランドを展開しており、各ブランドには各デザイン担当者がいる。

 その中で「ISSEY MIYAKE」は、デザイナーとして独立した当初から現在まで、三宅一生自身が直接手掛けてきたブランドである。プリーツのシリーズも、現在三宅自身がデザインに関わっているが、それは、「ISSEY MIYAKE」の中で実験的に発表され、その後、より一般向けの定番として独立していったものである。また、「ISSEY MIYAKE」はそのシーズンのテーマやデザインの方向性を、世界に向けてアピールする場、パリ・プレタポルテ・コレクションで年に2回、ショウとして発表される。

 本論で三宅一生の作品という場合は原則的に「ISSEY MIYAKE」として発表された作品を指すこととする。また、それを他のものと比較、検討する場合には、原則として同じプレタポルテ・コレクションとして発表された作品を対象とする。が、時代的にオートクチュールの作品と比較することに意味がある場合にはこの限りではない。以上が三宅一生の造形性を論じる場合の前提条件である。

2.三宅一生の略歴と作品のテーマ

 三宅一生はこれまで、いくつかの独自のテーマのもとで仕事をしてきた。彼のファッション・デザイナーとしての仕事の奇跡を概略的に、時間軸に沿って辿ってみる。

 三宅一生は1938年、広島に生まれた。

 1959年、多摩美術大学図案科に入学。在学中、「装苑」主催の「装苑賞」に応募し続ける。1962年、第11回装苑賞で「リズムミシン賞」受賞。1963年、初コレクション「布と石の詩」(東京)を行う。1964年、多摩美術大学図案科卒業。

 1965年、渡仏。パリ・クチュール組合の学校に学ぶ。初めにギ・ラロッシュ、1968年にはジバンシーのメゾンで仕事を始める。その間、ロンドンにも度々出掛ける。1969年、渡米。ニユーヨークのジェフリー・ビーンのスタジオで半年ほど働く。1970年、日本に帰国。三宅デザイン事務所設立。

 1970年末、「入れ墨」をもとにしたTシャツを発表。「第二の皮膚」がテーマとして現れる。また同時に、「刺し子」等伝統的な布地の現代的な改良、新しいアクリル・ニット地「ピューロン」の開発といった布地自体の探求も進められる。

 1971年、海外で初のコレクションをニューヨークで発表。1972年、ショウ「ボディーウェアって何だ?」(東京)開催。

 1973年、「刺し子」のモチーフを使った三宅一生の作品が『エル』誌(フランス)4の表紙を飾る。コレクション発表の場をニューヨークからパリに移す。このパリ・デビューによって、三宅一生はデザイナーとして世界的に認知される。同時に高田賢三、山本耀司、川久保玲ら他の日本人デザイナーとともに、「モード・ジャポネ」、「ジャポニスム」のデザイナーと呼ばれるようにもなる。確かに当時の三宅一生の作品には、日本の伝統的な素材、野良着や作業着のような形といった「ジャポニスム」が多く見られる。

 1976年、予てからの布地の探求と、体に纏った一枚の布という造形が、「一枚の布」として一つの作品となる。1977年、ショウ「三宅一生と一枚の布」(東京)開催。1978年パリ秋季芸術祭「MA:Espace-Temps du Japan」(パリ、ニューヨーク)に参加。1979年、アスペン・デザイン会議にてショウ「Issey Miyake:East Meets West」発表。

 1980年、モーリス・ベジャール「カスタ・ディーバ」(Maurice B jart,Casta Diva)の衣装を毛利臣男とともにデザイン。同1980年、プラスティック・ボディー発表。1983年、「Issey Miyake Spectacle:Bodyworks」展(東京、ロスアンゼルス、サンフランシスコ)開催。1985年、シリコン・ボディー発表。同1985年、「Issey Miyake Bodyworks:Fashion without Taboos」展(ロンドン)開催。1988年、「Issey Miyake A-UN」展(パリ)開催。1980年代の三宅一生は服というよりも、人体そのものを象ったオブジェのような作品を次々と発表する。

 同1988年、「Pleats Please」のプロジェクト発足。1975年の麻クレープ、1982年の絹入り合成繊維、1985年の綿素材のプリーツ等、プリーツの仕事はもっと以前から着手されてはいた。素材や加工技術の研究開発の末最終的に、ポリエステル素材を服の形に裁断、縫製してからプリーツ加工を施すという三宅一生独特のプリーツが出来上がる。その後、手作業によるしわ加工を施した「ツイスト(Twist)」シリーズも加わる。

 1989、90年の秋冬コレクションでは、素材の伸縮性の研究から、入れ墨に似た装飾を施したボディー・ストッキング「タトゥー・ボディー」を発表。1991年、ウィリアム・フォーサイスとフランクフルトバレエ団「The Loss of Small Detail」(William Forsyth,FrankfurtBallet)の衣装をデザイン。

1993年、ブランド「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」の発売スタート。「プリーツ」は現在もテーマの一つとして継続されている。以上のように三宅一生は、彼独自の幾つかのテーマのもとに服作りをしてきた。中にはもはや服とは呼べないような作品もある。この多様な作品群の中に、一貫して通底する、三宅一生特有の造形性というものは発見できるだろうか。

3.ファッションにおけるジャポニスムと定形

3.−(1)ファッションにおけるジャポニスム

 既に、答えの一つとしてジャポニスムがある。ジャポニスムは服の表面上のモチーフ、即ち日本の伝統的な色、柄、布地だけでなく、構造にも現れる。キモノのような平面的な裁断、縫製で仕立てられた服は、体に纏ったとき、適度なゆるみや隙間が生じる。この平面性、ゆるみや隙間こそファッションにおけるジャポニスムの重要な要素であるとされている。5

 平面性、ゆるみ、隙間は、パリ・デビュー当時の明らかな「ジャポニスム」ファッションだけでなく、「一枚の布」や最近の「プリーツ」作品の中にも認められる造形である。従って、三宅一生=「ジャポニスム」という図式が成り立つように思われる。

 しかし、三宅一生の作品群は、ジャポニスムという一つの括りに収めるにはあまりに多様である。1970年代からのテーマ「第二の皮膚」や1980年代の「Bodyworks」の作品、1989、90年のボディー・ストッキング等、造形的には平面性、ゆるみ、隙間とは逆の、人体という立体への密着、一体化が強調された作品も多く見られるのである。

三宅一生特有の造形性は、一つのテーマに収まり切らない多様性にあると言える。しかし、作品の多様性というだけでは、どのデザイナーの造形性についても当てはまることである。彼特有の造形性としての多様性を、ファッションにおける定形や典型との比較によって明らかにしたい。

3.−(2)ファッションにおける定形

 現在我々が単に「服」という場合には、現代西洋服のことを指し、ファッションという場合には疑いも無くそのことである。この中に定形や典型があるとすれば、それは西洋の服作りの歴史と伝統の中で育まれてきたものだと言える。

 この最も古い伝統を、現在も色濃く受け継いでいるのは、パリを中心としたオートクチュール界である。その起こりは19世紀から18世紀末に溯る。1789年のフランス革命によって、それ以前は厳しい取り決めのあった服装の規制が撤廃され、服を作ることにおいても「同業者組合」が廃止された。19世紀になると産業革命の波及、ミシンの実用化により既製服が普及。装うことが急速に大衆化した。新旧の貴族と、新たに興った裕福な市民階級の婦人たちは、衣服における大衆との差別化を求めた。それに応えて誕生したのが、1840年代、第二帝政のパリを中心としたオートクチュール(高級仕立て業、高級仕立て服)である。6

 大衆との差別化という目的を持っていたオートクチュールは、フランス革命以前の宮廷の服作りの伝統も保存してきたと考えられる。そこで受け継がれてきた伝統的な服の形、即ち西洋服の定形の一つに、胴体をコルセットで縛り上げ、腰、臀部にフープを入れて膨らませた、女性という人体の強調形がある。クリノリンやバッスル・スタイルはその典型である。現代のオートクチュール・コレクションでも、イブニング・ドレス、マリエとしてそれらのスタイルはよく見られる。

 今の我々にも通じる西洋服の現代化は20世紀になってからである。それまで一部の芸術家たちの周りでのみ試されていたコルセット無しの服装は、1907年、パリの新人デザイナー、ポワレ(Paul Poiret,1879−1944)が発表したドレス「ローラ・モンテス」をきっかけに一般にも広まった。現代西洋服は、体を変形させる程拘束的な旧世代のコルセットからの解放に始まったとされる。

 当時ポワレが好んで採用したドレスの形は、肩を支点にしたゆるやかなラインのもので、ギリシア風とも、トルコ、中国、日本等を含めた東洋風とも呼ばれた。これらは先に述べた19世紀以前より続く西洋服の定形からは少しずれた形をしている。しかし、それはあくまで異国風という一つの流行としてのずれである。パリを中心とした西洋のファッション界ではそれ以前にも、またそれ以後にも、シノワズリーやジャポニスムの流行は度々あった。トピックスとしての定形からのちょっとしたずれ、異国趣味へのずれ、これも西洋ファッション界の一つのパターンであると言えるかも知れない。が、それが西洋服の定形という造形に根本的な変化をもたらしたわけではない。

 ポワレが引き起こした現代的な変化の本質は、「コルセットからの解放」である。それは従来のコルセットによって極端に強調されてきた女性の体、人体という形を、より本来的な形で受け入れようとするものである。そこから生まれてきた服は自然な体の輪郭に沿うものであり、活動的でさえあった。ポワレにやや遅れてデビューしたシャネル(Gablielle Chanel,1883−1971)は、スカート丈を短くし、女性の体を動きやすくした。

 女性的な部分を強調した形からより自然な形へ。さらに活動性を。そこには、依然として人体という定形があるということに変わりはない。従って、西洋の典型的な服作りの中心には常に人体という定形が置かれてきたのだということができる。

 パリ・オートクチュールはこの歴史と伝統を受け継ぎ、二度の世界大戦を経て今なお、ムークリエ氏曰く、奇跡的に続いている。

 では、本論の基準としたプレタポルテについてはどうか。そこにもシステムの違いを越えて、伝統的な服の定形や典型は反映されているのだろうか。1950年代以降のオートクチュール対プレタポルテの構造は1.−(2)で述べた通りである。現代のオートクチュール・メゾンはプレタポルテも扱う。そのプレタポルテ作品にはオートクチュールの伝統が反映していると考えるのが自然である。オートクチュール、あるいはオートクチュール・メゾンのプレタポルテに限らず、先に述べた定形、典型は西洋服全体について当てはまると考えられる。1950年代までの西洋ファッション界の権威は絶対的にパリ・オートクチュールであり、そこで発表されるデザインが西洋に限らず、世界という裾野に拡がってがって行くという構造が、服飾史的にあまりにも長く支配的だったからである。新世代として台頭してきた独立のプレタポルテであっても、長くて深い定形や典型の影響は否定できない。

 オートクチュールにしろ、プレタポルテにしろ、ファッションにおける定形とは人体である。どんなに前衛的に見える作品でも、大半は人体という定形と、人体を中心にした服作りを無視してはあり得ないものである。

4.被服空間

4−(1).被服空間とは

 ここで三宅一生の作品群と、定形による典型的な服の具体的な比較の為に、「被服空間」という座標軸を設定する。「被服空間」とは、服を体に纏うことによって生じる、服と体の間の空間のことである。この空間には二つの意味がある。一つには距離として測られる物理的な空間。もう一つはイメージとしての拡がり。その具体例を次に示す。

 例1.体に密着したTシャツの場合。体と服の間にできる隙間は小さく、物理的被服空間はほとんど0である。イメージとしての被服空間も体の皮膚表面である0に近い。

例2.体に沿ったプリーツ・ドレスの場合。それを身に付け静止した状態の物理的被服空間はかなり小さい。しかし、プリーツは体の動きにつれて拡がる。従って、この物理的被服空間は最大、最小の幅を持つ。また、プリーツという布の折り畳みの中には、拡張と収縮というイメージが潜在する。イメージとしての被服空間も幅を持つ。

 本論では、物理的な被服空間とイメージとしてのそれが一致している場合には、単に「被服空間」と言う。また、物理的な被服空間とイメージとしてのそれが一致しない場合等、両者を区別する必要のあるときには、改めて「物理的被服空間」、「イメージとしての被服空間」と言うこととする。

4.−(2)定形による 被服空間の領域

 典型的な服作りにおいては、その被服空間は人体という定形を見失うことがない。どんなにスカートが拡がっても、それは人体の女性的部分の強調であって、体全体の形に無関係に拡がっていくものではない。細く絞られたウエスト・ラインについても同じである。ここでの物理的被服空間の大小は、人の形をなぞった上でのものあり、それが分からなくなるまで膨らんだり、縮んだりすることはない。イメージとしてのそれも同様である。サンローランが1966年に発表した「シースルー・ルック」にしても、透けて見えるのは体の皮膚表面までであり、体の内部にまでイメージが浸潤していくというものではない。イメージとしての被服空間は、常に人体という原点に固定されている。

 その物理的被服空間の領域には、人の体から外れない範囲という限界がある。また、人体という定形が原点として存在し、イメージとしての被服空間はこの原点に固定されている。これが人体を定形とした被服空間の座標軸であり、領域である。 

4.−(3)三宅一生の被服空間の領域

 では、今度は三宅一生の作品を「被服空間」という座標上に載せてみる。

 「第二の皮膚」の入れ墨風Tシャツは体の皮膚表面に沿っているので物理的被服空間はほとんど0である。「Bodyworks」のボディー・ストッキング「タトゥー・ボディー」のそれはもっと0に近い。同時に、Tシャツやボディー・ストッキングの表面に施された入れ墨様のモチーフには、皮膚に刻まれたもの、彫られたものというイメージが存在する。イメージとしての被服空間は、皮膚表面の0という位置を突き抜けて負の位置にまで食い込む。

 また、伸縮性の研究から開発されたボディー・ストッキングは本来小さなものである。それを着た体は常に内側へと圧迫される状態にあると見なされる。このイメージの延長線上には、体という立体が圧縮され小さな塊となり、さらに立体性を失って一つの点となり、終にはそれさえ見えなくなってしまうという−∞を置く。

 「一枚の布」については、物理的被服空間はゆったりとしてかなり大きい。また、一枚の布という造形は、体をパッケージするのではなく、逆に体からスルリと解けて、離れていこうとするものとして見ることができる。イメージとしての被服空間は服と体との距離が限りなく拡がる+∞であると見なされる。

 パリ・デビユー当時の「ジャポニスム」作品の被服空間は、3.−(1)で述べたゆとり、隙間という有限の大きさを持つものである。

 三宅一生の「プリーツ」については、素材が比較的硬いポリエステルでできており、それほど伸縮性は無い。物理的被服空間は比較的小さい。が、イメージとしてのそれはプリーツとしての幅を持つ。 この被服空間というスケールによって三宅一生のこれまでの作品を発表年代、テーマの別によらず、共通の座標上に分類することが可能となる。また、これでファッションの定形や典型との比較も可能となる。三宅一生の被服空間の領域を図1にまとめた。

5.三宅一生のファッションというパラダイム

 定形による物理的被服空間の領域には、人の体から外れない範囲という限界がある。また、人体という定形が原点として存在し、イメージとしての被服空間はこの原点に固定されている。これがファッションにおける定形、典型のパラダイムである。

 これに対し、三宅一生の被服空間の座標軸には人の皮膚表面が0の位置として設定されてはいるが、相対的なものである。イメージとしての被服空間はそこから限りなく負の方向へも、正の方向へも移動可能である。固定された定点を持たない座標軸はどこまでもずれてゆく。

 彼のファッションというパラダイムは単なる西洋から東洋への「ずれ」ではない。それもジャポニスムという西洋にとってはこれまで何度か移ったことのある場所への。あるいは西洋を中心としたときの周辺諸国民族という意味のエスニックへの。実際に三宅一生には「ジャポニスム」以外の民族衣装風の作品も多くあるのだが。ジャポニスムにしろエスニックにしろ、それは相変わらず西洋、とりわけファッションの場合はパリという中心を前提にした「ずれ」である。3.−(2)で述べたような「西洋ファッション界の一つのパターン」にすぎず、西洋服の典型のパラダイムからずれるものではない。

 4.−(3)で述べたように平面構成の日本のキモノの物理的被服空間は人体に対し、適度なゆとりとして有限の大きさを持つ。またそのイメージとしての被服空間は、人体を包み込むということから、人体という原点に位置していると言える。西洋、東洋を問わず、人体を中に入れるものとして作られ、「服」と呼ばれているものの、そのイメージとしての被服空間は皆同様であると言える。

 従って、これまで西洋服のものとして述べてきた、人体を定形としたファッションのパラダイム。これを我々が普通に「服」と考える世界のあらゆる服の定形、典型のパラダイムであると言い換えることができる。

 三宅一生のファッションというパラダイムと、定形や典型の被服空間との関係を図2にまとめた。そこでは被服空間という座標軸に加えて、服の形を表す指標として、立体性と平面性という座標軸を採用している。

結論

 三宅一生特有の造形性は被服空間の多様性にあると言うことができる。イメージとしての被服空間によって、定形からずれた座標軸を持つ作品群を形成し、それが無限の領域として存在する。無限の領域中では造形のヴァリエーションもまた無限に存在する。三宅一生はその中から実際に作品として実現可能なものを自由に選択して我々の目の前に示して見せる。選択肢によっては、作品の造形は必ずしも従来の服らしい服、即ち典型的な服の形をしているとは限らない。定形を内包した、座標軸を異にする作品群から成るより大きなパラダイム。これが三宅一生のファッションというパラダイムであると言えるのではないだろうか。

 人体、服、西洋、東洋、伝統、定形、あらゆる枠組みをその一部分としてしまうような三宅一生の造形に対する独自の姿勢は、彼の内面においてはどのような形で存在しているのだろうか。

 それを彼の幼少の頃の戦争、被爆体験に帰する見方もある。廃墟の後だからこそあらゆる可能性の存在を認めるという楽観的な姿勢、それが彼の無限ともいえる造形性の源であるというものである。また、日本という西洋服の歴史が浅い場所で育った為に、それに縛られない自由な造形性を発揮できたのだという日本人デザイナーとしての見方もある。

三宅一生の造形性の源泉として特定のものを決定することはできない。しかし、建物、都市、そして人間さえも一瞬にして消滅してしまうという体験の後では、既製の物に対する執着が極めて希薄になる可能性を想像することはできる。三宅一生の目が人間の肉体までも儚いものとして捉えていたとしたら、人体という既製の定形に則った造形はヴァリエーションの一つではあっても、絶対的なものとしては存在しないだろう。このようなものの見方が、三宅一生のパラダイムを複数の座標軸から成る多元的な世界にしているのだと考えられないだろうか。

(図版は省略)



  1 現在、日本では服飾や流行という意味でファッション、モード、スタイル、ヴォーグという言葉が最も多く使われている。一般的に、これらの用語の使い方に厳密な区別は無い。ただし、服飾関連の企業内では便宜上、次のような使い分けがあるとも言われている。モードとはふつう「芸術的な創作」を意味し、ファッションとはモードが多くの人たちに採用されたもの、スタイルとはファッションがさらに定着したものを意味する、というものである。本稿ではファッションという語で統一した。 

2 藤井郁子編「INTERVIEW from Paris」 『ハイファッション』第254号(1996年11月号)、15頁。

3 M.ホルボーン編著、木幡和枝訳『ISSEY MIYAKE』(東京、三宅デザイン事務所、1995年)、30頁、(1993年11月、東京にてホルボーンが行ったインタビューからのコメント)。

4 ELLE No.1447(September 10,1973),Paris.

5 深井晃子著『ジャポニスム イン ファッション 海を渡ったキモノ』(東京、平凡社、1994年)、参照。

6 深井晃子著『パリ・コレクション−モードの生成・モードの消費』(東京、講談社、1993年)、参照。

参考書目

キャラウェイ・エディションズ編、原不二子訳『三宅一生 写真   アーヴィング・ペン(ISSEY MIYAKE PHOTOGRAPHS BY IRVINGP  ENN)』 東京、リブロポート、1988年。

木村要一編「特集ファッション」 『美術手帳』第32巻第465  号(1980年5月号)、45−127頁。 

京都服飾文化研究財団編『モードのジャポニスム キモノから生ま  れたゆとりの美』 京都、京都服飾文化研究財団、1994年。布施英利著「美術館には脳がある 第八回 聖林寺・十一面観音立  像−衣紋の美−」 『世界』第589号(1993年11月号)  286−292頁。

三宅デザイン事務所編『一生たち ISSEY MIYAKE & MIYAKE DESIGN  STUDIO 1970−1985』 東京、旺文社、1985年。

三宅一生著『ISSEY MIYAKE BODYWORKS』 東京、小学館、1983  年。

三宅一生著『三宅一生の発想と展開 ISSEY MIYAKE East Meets We  st』 東京、平凡社、1978年。  

(註に記載のものは省略。)