徳川夢声−戦後メディア界の寵児−
 1997年度卒業論文
濱田研吾 

「人間の生地を写す」といわしめた、徳川夢声(1894-1971) 連載対談「問答有用」は、 『週刊朝日』昭和26年3月4日号に、夢声の口上で幕を開けた。大正初頭、無声映画の弁 士としてキャリアをスタ−トさせ、映画、ラジオ、テレビ、雑誌とあらゆるマスメディア を独自の話術で操り続けた夢声にとって、この1冊の週刊誌はさらなる飛躍のはじまりと なる。今回は「問答有用」と戦後雑誌文化を手がかりに、夢声の実像に迫っていきたい。

1、名ホスト誕生まで
昭和2年の『文藝春秋』誌上座談会※1)をきっかけに、雑誌界での座談・対談掲載は珍 しくなくなる。名弁士として話芸にたけ、文筆にもその才を発揮した夢声にもそれらの仕 事は次々に舞いこむ。昭和24年2月には辰野隆(仏文学者)とサトウハチロ−(詩人)と共に昭和天皇との座談会も実現。天皇信奉者の夢声は狂喜するが、それは「天皇が国民と 親しまれる方法」の一貫で、噴出する天皇戦争責任論への、宮内庁の苦肉の策としかいえ なかった。だが同年6月号『文藝春秋』にその模様が大々的に報じられて、8万部の同誌は18万部にまで急上昇。タブ−を破り、部数をのばした『文春』に出版界は驚愕する。
その2年前には今ではポピュラ−な連載対談が日本に誕生。仏のルフェ−ヴル※2)対談 「Une heure avec 」をヒントに、辰野隆がはじめた「忘れ得ぬことども [週刊朝日・S 22,10/26号〜] 」がそれで、11万部の同誌が僅か2万部だけのばす結果をもたらす。
御前大放談会と連載対談の誕生は夢声にとっても好機到来となる。昭和25年3月1日か らは夢声初の連載対談「同行二人 [東京日日新聞] 」が始まり、片山哲(首相)や古今亭 志ん生といった毛色のかわった14名と対談、「一つの新形式の読物を創り出そうと企てた 」と抱負を述べた。その企てとは、ノンフィクションである対談速記に、ユ−モアを交え た夢声の主観、状況描写を挿入することで、初仕事への意気ごみのあらわれとみえた。
ただその意気込みに反して、現実は読者の興をそぐ代物となる。「所で彼女のハダカ姿 であるが、オシリの方は如何?」や「モノがモノだけに、チンレツという言葉が・・ [ス トリッパ−ヒロセ元美との対談] 」といった記述はまだ控えめで、再録不能の記述も存在 している。天皇がお笑いになった対話が嘘のようなタレントの悪ふざけ、座興に終わった この連載。夕刊という小スペ−スに、1人分を10回に分けた掲載法も読者の興をそいだ。 夢声のお節介演出は、速記録が引き出した人間の旨味を、ものの見事に逃したのである。一方同年10月スタ−トの「芸道漫歩対談 [芸術新潮連載] 」は半世紀たった今でも輝き を失わない秀逸なシリ−ズに変貌していく。同年初頭、にぎやかな美術雑誌界に参入すべ く、ジャンルに囚われない「芸術の総合雑誌」として『芸術新潮』は創刊をみる。夢声対 談も、その大衆向け編集が探りあてた金脈といえた。芸術に見識をもちながらも、専門家 でない夢声の起用には先見の明がある。マイナ−美術誌という性に合った舞台での、木暮 実千代から武者小路実篤まで11人との蘊蓄合戦。ここに名ホストは誕生をみたのである。

2、『週刊朝日』昭和26年3月4日号
こうして両連載は「問答有用」へとうけつがれていくが、それは辰野対談から、高田保 「ふたつの椅子」、浦松佐美太郎「若い世代」、獅子文六「面白き人々」に続くものであ った。尾張徳川家当主、徳川義親との「真贋徳川対決」を第1回 [3/11号] に全 400回、 8年間におよぶ長丁場となる。過去の連載はどれも15回程で終了しており、反響の大きさ が理解できよう。各界の著名人を網羅する相手に、夢声もおよび腰になりつつ、やりがい を見出した。メディアを制覇し続ける話術の巧みさ、対話の上手さ。膨大な読書から得た 雑学知識の横溢に、ウィットという名の機知と会話の妙。聞き手に回って相手の人間的ベ −ルを痛快にはがし、シリ−ズは「夢声話術の白眉 [時の素顔] 」とよばれるに至る。 「人物論は万人の興味のひろばである。これが面白くなくなったときは、人生から退場し なくてはならぬ。『週刊朝日』連載の「問答有用」は徳川夢声の対談という方式による問 答人物論で、自伝や他伝では決して明るみにでることのない盲点が平談俗語のうちにさら けだされて、読み出したらきりがない。夢声老の話術の秘伝は巧みな聞き手に回ることに あるようだ [人間の盲点をつく〕S27,10/8/付『朝日新聞』」聞き手に徹し、個人的見解を露骨にみせなかった姿勢が、連載の長命の秘訣となった。 その姿勢は夢声にある限界を迎えさせることにもなるが、連載対談のスタイルを確立させ 夢声話術の一端を巧みに覗かせた点は評価できる。牧野富太郎とタケノコ談義に花を咲か せ、徳富蘇峯とは日中の夫婦喧嘩比較をし、堂本印象とは西洋料理と宗教画について語り 合う。吉川英治に「現代日本の人物百科辞典」といわしめた、まさに貴重かつ異色の一大 フ−ズ・フ−。それは半世紀前の日本の世相を浮き彫りにした、第一級資料ともいえた。

3、風来の人
対談家夢声を語る上で「同行二人」の企画者、高田保(1895-1952) の存在は知る必要が ある。浅草のペラゴロ※3)をふりだしに、左翼演劇、新国劇の脚色・演出、さらに洒脱な 随筆と才筆をふるった才人。ユ−モアの中に鋭い風刺をこめたコラム「ブラリひょうたん [東京日日新聞連載] 」は戦後の隠れたベストセラ−であった。親交は「いとう句会※4) 」にはじまり、座談・対談もかさね、昭和21年には同人として『雑談』を創刊している。
保には座談・対談記事を見事に構成、手なおしする手腕があり、「同行二人」での夢声 の企ての秘密もそこにあった。ただ夢声にその手腕的センスはなかった。一方「同行二人 」と同時期の保対談「ふたつの椅子 [週刊朝日] 」は人生の機微を感じさせ、瓢々とした 保の人柄が滲んで評判をよび、夢声も第11回ゲスト [S24,11/13号] に。夢声にとってラ イバル視せざるをえない連載だが、今日その比較をしてみて、その差は歴然としている。 幸田文を相手に露伴の人となり、父娘の情愛を滲ませた「ふたつの椅子」と、ストリップ 嬢の尻を妄想していた「同行二人」。その悪しき企ては影をひそめ、スタイルも純粋なる 速記録掲載に変わっていく。「キマリも悪かった [いろは交遊録] 」という夢声の反省は そうして『芸術新潮』の対談にいかされ、しかも好評の「ふたつの椅子」は18回で突然終 了※5)。皮肉にも連載対談のスタイル確立は保ではなく、夢声が果たすこととなる。 評論家、浦松佐美太郎は「高田保と徳川夢声 [文藝春秋・昭和25年4月号] 」で夢声と 保をそれぞれ「日本のマジョリティ−とマイノリティ−」と位置づけている。大正期に互 いに才能を開花させ、ユ−モアとウィットで渡り歩いた生涯は、道は異なれど相通じるも のが介在していた。胸部疾患で、57歳の若さで逝った保。銀座を愛し、大磯にその生涯を おえた彼をマスコミ天皇、大宅壮一は「銀座の良寛、大磯の一茶」と称した。「出版社の 中でも、50代の私が高田保を知る最後の世代 [文藝春秋・岡本進氏談] 」といわれるほど 忘れられた昭和の随筆家。「春の雪消ゆるものとは知りながら」と夢声は追悼句を詠み、 『高田保を偲ぶ座談会 [ラジオ東京] 』にも友人代表として出席し、親友の死を悼んだ。

4、伝説の編集者と対談ブ−ム
「問答有用」が 300回を越え、夢声は「この驚異的成果は編集魔扇谷氏のナセルワザで ある」と前白で述べた。夢声にとって記念碑的1冊となる『週刊朝日』昭和26年3月4日 号はまぎれもなく同誌編集長、扇谷正造 (1913-1992)のナセル業モノであった。新聞記者 をふりだしに出版部員をへて、「問答有用」のスタ−トと同時に編集長に昇進。僅か10万 部ほどの同誌を、5年たたずして 130万部の大台にのせてしまった名編集者である。
扇谷が新聞の日曜版的週刊誌を「第2報主義」のヒュ−マン・インタレスト雑誌に変貌 させるべく採った戦法は3つ。旧制女学校2年位の読書能力+人生経験10年という読者層 の設定。固定欄の設置。さりげない正義感とヒュ−マニズムの滲む、わかり易い誌面づく り。そして彼は「今日の週刊誌ブ−ムの開拓者 [ブン屋紳士録・堀川義直著] 」となる。
連載対談は日常性の確立にとび、話言葉によるリアルさと平易さに溢れ、好読物であっ て固定欄でもある。しかも最も新鮮な話題も提供できる。それを知る扇谷は、夢声が寄稿 した小林秀雄著『私の人生感』の書評[読書新聞] を一読、鋭敏な感覚に反応を覚える。 時に昭和26年初頭、その足は荻窪駅前、夢声の自宅に向いた。 700万部を誇ったアメリカ 版『PLAYBOY』の目玉企画、アレックス・ヘイリ−(『ル−ツ』著者)対談※6)に 先立つ11年前。いまや雑誌界常識のスタイルが日本に定着する、それは瞬間でもあった。
「富士山へのぼるには、静岡県から登り口もあれば、山梨県からもある。徳川さんは芸能 界から入り、小林さんは仏文学から入ったが、行きついた途──人生の常識とでもいうん ですか、それは同じじゃないかと。(略) 徳川さんを軸にして、芸能人を相手に対談をお 願いするってことは、いともたやすいことなんです。しかし、そこにジャ−ナリストとし て一体どんな創造があるか。我々の願っているのは、この書評をしている夢声だ。或いは 健康な市民、或いは常識人としての夢声氏の対談だ [週刊朝日・S32,1/20 号] 」
インテリかつ極めて庶民的な話芸の大家と、戦後の「顔」との対談には、扇谷の創造が こめられていた。大宅壮一のいう「夢声のもつ保守性6分と進歩性4分 [サンデ−毎日・ 夢声百態・S32,11/24号] 」とも相通じるこの連載。「問答有用」は扇谷の期待に答え、 吉川英治の「新・平家物語」とともに、『週刊朝日』の2大連載として貢献していく。
昭和27年には読売新聞の『週刊読売』と産経新聞の『週刊サンケイ』が創刊し、週刊4 誌の時代に突入。「問答有用」のヒットは他誌にも波及し、日置昌一 (歴史学者) 対談「 虚談・実談 [サンデ−] 」、阿部真之助 (政治評論家) 対談「昨日・今日・明日 [サンケ イ] 」、近藤日出造 (政治漫画家) 対談「やぁこんにちわ [読売]」と柳の下に泥鰌的様 相を示した。他にも『娯楽よみうり』の大宅壮一、『三彩』の河北倫明など、雑誌界に対 談ブ−ムが発生する。扇谷は「問答有用」の特許申請を考え、ギャラも1回5万、地方出 張10万※7)につりあげ、海外取材まで依頼。夢声入院騒ぎも病床対談としてきりぬけた。
そんなブ−ムも、歯に衣着せぬ毒舌で相手を困惑させた日出造対談と、女性初ホストに よる「細川ちか子(女優)対談 [評・S33〜40] 」以外は、「問答有用」の二番煎じにお わる。後者については戸板康二 (演劇評論家) が「サロンの女主人が客をもてなしながら 優雅な手つきで、お茶をついでいる感じ [百人の舞台俳優] 」と書いているが、女性ホス ト優位の現在、そのル−ツをみるおもいがして興味深い。いずれにしても、連載対談と夢 声に当時の雑誌界が翻弄されたのは事実で、「如何に編集者の知恵がないかを暴露しているようなもの [人物往来・濱田冬彦著] 」との批判が噴出するのも、当然の話であった。

5、マスコミ操る職人芸 こうして対談家の足跡を辿ってきたが、夢声の仕事はあくまで受け身に終始している。 その評価も、先達者である高田保や扇谷正造に与えられるべきもので、夢声の対話術の巧 みさだけでは意味をなさない。むしろ週刊誌という、当時としては力をつけつつある新メ ディアを、職人技の如く己のテリトリ−、飯の種にしてしまった点に注目したい。大宅が いう「文化の大衆版普及の功労者で、中間文化人の代表 [夢声百態] 」たる所以である。
古老が口を揃えて賞賛する夢声の弁士業も、そもそもは「鰻のかわりに泥鰌をたべる[N HKインタビュ−] 」心境ではじめた仕事。伝説となった『宮本武蔵』の朗読も「当初はひ どく気のり薄だった [武蔵LP盤解説書]」という有様。「問答有用」とて親友、獅子文六 の代理登板にしか考えておらず、「8、9人目でつくづく嫌になった」と後に証言してい る。扇谷の奥深い期待も知る由はなかった。だが、それらの仕事を嫌々に始めながらも、 長続きさせることによって、ライフワ−クへと変貌させる名手でもあった。一方で新メデ ィアを自由自在に操る夢声に、今度はメディアの送り手(映画会社、放送局、新聞・出版 社)が翻弄されてしまう。朗読姿をそのまま映した初期のテレビ放送や、ポスト「問答」 に躍起になる雑誌界が、それを顕著にあらわしている。人気者に翻弄されながら、知恵の ない企画を晒すメディアの送り手達。その構図は、平成の世でも変わる気配をみせない。 とはいえ、夢声はよき編集者に恵まれた。「編集者とは、自分の好きなものだけを活字 にする。それを好きな読者だけが読む」と言ったのは、『NewYorker 』創刊編集長、ハ ロルド・ロスであった。扇谷しかり、『文春』の池島編集長しかりである。編集者から雑 誌へ、雑誌から戦後の空腹なりし読者へ。その流れをラジカルな精神と己の舌先三寸の話 術で、うまく使いこなしたところに、夢声の真骨頂をみることができる。

6、文章のセミ・プロ
昭和26年5月号『新潮』に、小林秀雄・徳川夢声長大対談「常識問答」が掲載される。 雑誌界では、つとにしられた存在の夢声であった。戦前より文筆方面の活躍もめざましく 『改造』や最もアバンギャルドだった『新青年』の常連寄稿者と、寵児ぶりを発揮。戦後 の寄稿雑誌も『文藝春秋』『オ−ル読物』『文学界』『新潮』『小説新潮』『中央公論』 『キング』『日本評論』『ロマンス』とメジャ−、マイナ−を問わず多岐にわたる。後に ラジオ『私の自叙伝 [NHK 昭和39年]』の中で「私の文章は活字を読んでいながら、同時 に耳から話をきいているような、気がするような書き方・・」と語っているが、巧みな話 術は文体にも影響していた。ユ−モアと省略と日本的味つけ、いわば井伏鱒二や尾崎一雄 の文学と共通するものが垣間見れる。生涯80冊もの著作を残した夢声を、戦後雑誌ブ−ム (昭和21年) が無視するはずもなかったが、同時に文章のセミプロの需要が高まった点に ついても述べる必要がある。彼らは出版史の中でも、語られることのない存在であった。 永井荷風の原稿料が1枚4000円と噂される当時、名のある文豪への執筆依頼は至難の業 といえた。そこで重宝された雑文の数々は軽妙洒脱な随筆、ユ−モア文学がそのほとんど を占め、夢声や渡辺紳一郎 (評論家) 、山本嘉次郎 (映画監督) 、宮田重雄 (医師・洋画 家) 、石黒敬七 (柔道家) 、福田蘭童 (作曲家) 、横山隆一・泰三 (漫画家) 、清水崑 ( 漫画家) 、中川一政 (洋画家) といった本職は別の書き手 (セミプロ)の需要が高まった のである。原稿料は文豪とはくらべものにならず、雑文でありながら文体に遜色はなく、大衆向け編集が強みを発揮した中、読者にも受入れ易い魅力に溢れた。しかも書き手とし ての知名度はタレント並であり、必然的に需要に拍車が掛かっていく。夢声は『宮本武蔵』の語りで別格の地位。紳一郎、嘉次郎は『話の泉』の、宮田は『二 十の扉』、石黒は『とんち教室 [いずれもNHK]』のクイズ解答者として茶の間の人気者。 蘭童は連続活劇ドラマ『新諸国物語[NHK]』の音楽家として、子供内でも知られた人物。横山兄弟、清水については新聞・雑誌の連載や4コマ漫画で読者になじみの存在と、書き 手としての知名度に申し分はない。ユ−モリストを気取る彼らにとっても、雑誌はそのウ ィットを表現する、恰好の舞台でもあった。
しかし、まっとうなだけに堅苦しく、非個性的といった弱点もあった。昭和30年代に週 刊誌が驚くべき勢いで普及し、歓迎されたセミプロは雑誌界の敬遠をまねいて消えてしま う。石原慎太郎の『太陽の季節』衝撃的デビュ−以後、新世代の作家も頭角をあらわし、 文芸誌はより文学色を追求。月刊誌でも「芸術の総合雑誌」であった『芸術新潮』が美術 の専門誌に変貌したように、専門性をより重視。新興メディアに対する守りにはいる。結 果、古典的セミプロ達の文章は、文章規範に囚われない、ヘタウマ文体に移行。存在も歌 手やタレント、放送作家といった、現在でも雑誌を支える書き手へとうけつがれていく。

7、「問答」終了と週刊誌戦国時代 3代目三遊亭金馬や2代目広沢虎造は、その話芸をラジオというメディアにいかした、 最初の功労者であった。夢声も映画説明、朗読に培ったその話芸を、週刊誌というメディ アに反映させていく。話芸と週刊誌、その稀なる成功例「問答有用」も水戸徳川家当主、 徳川圀順との対談 [週刊朝日・S32,12/14号] をもって幕を閉じ、夢声曰く「人物の専門 大学を卒業 [時の素顔] 」となる。後に回顧録「問答八年の人々」の中で昭和天皇、皇太 子、林芙美子、会津八一、永井荷風ら幻の対談相手も紹介した。時同じくして、扇谷は出 版局次長に昇進、思い出の編集部を去る。こうみると「問答有用」と扇谷の編集長期間が まったくの重なりをみせることに気付く。終了のタイミングに、夢声も異論はなかった。
映画、放送に続き、週刊誌という新メディアをも制覇するきっかけとした1冊と、その 限界を招くきっかけとなる1冊。「問答有用」連載開始と終了の『週刊朝日』は紙質、ペ −ジ数、グラビア、カラフルさと相当に質素な時代モノだが、メディアの寵児たる夢声の 飛躍と限界の生涯が隠されている。とある週刊誌の創刊が、その限界を招いたのである。
『週刊朝日』の扇谷正造、『文藝春秋』の池島信平、『暮しの手帖』の花森安治。「雑 誌ジャ−ナリズム三羽烏」とよばれた彼らは、活字の重さを読者に忘れさせる誌面づくり で、部数を大幅にのばすことに成功させた。中でも週刊誌業界は、新聞社系4誌のみとい う無風状態にあり、扇谷『朝日』はその頂点にあった。しかし、昭和31年2月『週刊新潮 』が創刊され、その無風状態に老舗出版社がゆさぶりをかける。機動性とネットワ−クに 恵まれた新聞社専売意識を逆手にとり、新潮社は「第3報主義」誌面づくりで対抗。連載小説は谷崎潤一郎、大佛次郎、五味康祐と揃え、表紙には谷内六郎の叙情的イラスト、C Mはテレビ、広告は電通と博報堂の全面的バックアップ。さらにB級大衆作家、柴田練三 郎の「眠狂四郎無頼控」が決定打と
なり、新聞社専売神話は脆くも崩れをみせた。
以降4年間に創刊された週刊誌は『女性』『大衆』『明星』『ベ−スボ−ル』『実話』 『女性自身』『少年マカジン』『少年サンデ−』『文春』『現代』『平凡』『コウロン』 『芸能実話』など50誌におよぶ。昭和33年11月には各誌の「皇太子婚約特集」が引き金で「ミッチ−ブ−ム」が発生。前年には雑誌界の君臨をほしいままにした『キング [講談社 ] 』がまさかの廃刊。ジャ−ナリズムへの発言力も強くなり、その激しい週刊誌生存競争 にあって、スク−プ、スキャンダル、セックスの「3S」編集に終始していく。それをい ちばんに受け入れたのは誰かろう、大衆という名の読者であった。

8、寵児の限界と晩年 「『週刊新潮』からは輪転機の音がきこえない [現代のマスコミ] 」という扇谷の嘆きも、虚しく響く週刊誌新時代。夢声の雑誌界での活躍も目にみえて減少していく。セミプ ロとして雑文業はいうに及ばず、対談ホスト業も打ち止めとなった。夢声話術の一端とゲ ストの人間味を滲ませた対談を、空腹の大衆は支持した。だがスキャンダラスな誌面に食指を動かす大衆と、それを知る雑誌界にとって、対談家夢声の存在はきれいごとかつマン ネリなものとなっていく。凌ぎをけずる週刊誌業界にあって、夢声はジャ−ナリストにな りえる素質にも欠けた。それはメディアの寵児夢声の、限界を意味していたのである。 夢声は日出造対談「やぁこんにちわ」の中で「おれという人間は、誰でも調子をあわせ るオタイコヤロウ [週刊読売・S32,5/19 号] 」と語るが、どんな相手でも器用に対談を こなすその姿に、ポリシ−は求められにくい。「近江絹糸紡績争議」事件の時も、夏川社 長と滝田全労委員長という渦中の2人と対談したが、あまりに中立的な夢声の態度には、 不信の念すら抱かされる。庶民の代表ならではの怒りの声も、「問答有用」からは伺い知 ることができなかった。その物腰の柔らかさは人徳にもなったが、それは無風の週刊誌時 代にだけ通用した話。よりシャ−プな切り口の週刊誌時代では、その柔らかさが逆に仇と なった。その追い打ちをかけるように、バラエティ−番組という怪物が夢声を襲う。
日本のバラエティ−の草分け『光子の窓 [NTV S33〜37] 』は、僅かに残る夢声のテレ ビ番組のひとつである。そこには「テレビは20世紀最悪の産物」と呟く夢声と、まるでテ ンポのズレた踊りと困惑の笑顔を披露する夢声がいるだけであった。その白黒VTRには 今日のテレビ文化のル−ツがみえる。一方で夢声のタレントとしての限界もみえた。 週刊誌の生き残りをかけた過激なスク−プ合戦と、テンポの速さをテレビ文化にいかし たバラエティ−番組、夢声にとってはどちらも縁遠い世界であった。そんな限界を知った 夢声にも、晩年はおとずれる。名誉都民に選ばれ、はたまた火星に10万坪の土地を購入す るという愉快な日々。30余の団体名誉職と数々の賞歴。メディアの寵児はメディアにのる ことのない活躍をすることで、その晩年を開花させていく。それらの活躍は『NHKニュ −ス』に克明に記録され、31件のフィルムが「門外不出」として永久保存されている。
昭和40年3月、愛知県犬山市に「博物館・明治村」が開村し、夢声は名誉村長に就任。 山高帽子に五ッ紋スタイルで人力車に乗る、嬉々とした姿もニュ−スに記録されている。 古稀をすぎても、そのディレッタントぶりには拍車がかかるばかり。文春主催のパ−ティ −で菊地寛と同様の人垣を築いた人脈家だったが、対談の仕事を通して人脈はさらなる広 がりをみせる。作家、里見トン[該当漢字なし]は「お喋りの大家をむこうにまわして、少々喋りすぎた。なつかしく、味の深い人であった [かまくら春秋] 」と書くが、招かれた多くの人々も話術 の神様との対話を喜び、満足して帰ったという。ジャ−ナリズムでの活躍の終わりにもなり、賑やかな晩年のはじまりにもなる「問答有用」。その終了の14年後、昭和46年8月1 日、徳川夢声逝去。なおNHKの倉庫には、夢声の「お別れの式(青山葬儀所 8/7)」を 記録した、僅か65ftのカラ−フィルムが残っていた。26年ぶりに甦る映像には各界の著名人や一般参会者の姿も多く見え、夢声の顔の広さ、その人気を改めて知ることができた。

9、総括 夢声は『問答有用・夢声対談集(全12巻)』の最終巻に、こう前書を記している。 「エジプトの王様はピラミッドを残した。私も御多分にもれず、何かしら残したい。全12 巻の『問答有用』は、私のあわれなピラミッドである。 (略) さて、お前は人間と生まれて何をしたかと自問す。別にコレゾということもしていない。そうなるとこの『問答有用 』全12巻などは、とにかくコレゾのひとつである」 対談相手の顔ぶれを通覧してみて、感慨深いものがあったのであろう。ここには夢声の 満足な思いが充分こめられている。対談の仕事に関しても「人と人との結びつきに対談と いうものは、空気の如く、水の如く、また時には酒の如くに必要欠くべからざるものだ。 愉快な対談ができる人生は、すなわち幸福なる人生なのである [対談奥義書]」という激 賞ぶりである。対談の仕事をとおして話術に磨きをかけ、自身にも磨きをかけた夢声。週 刊誌という社交場でさらなる人脈を築き、その晩年までをも愉快にしてしまった男。近代 の日本文化史を紐解いても、これだけ多メディアを器用にわたり歩いた人物はいない。作 家、石川達三は「徳川夢声の話術はつくられた話術 [流れゆく日々] 」と書いたが、対談 の奥底に流れるのは、他人との会話という、いわば話芸とは離れた自然体の話術だった。 映画説明、漫談、朗読、雑文と夢声の話芸史の最後を飾ったのが対談、そして週刊誌と いう場であった。しかし猥談と悪口に閉口した明治生まれのタレントにとって、ゴシップ とスク−プに溢れた、週刊誌本来の姿には、あまりに馴染めないものを見たのかもしれな い。シリ−ズの挿画を担当していた横山泰三は「僕と夢声さんは対談の帰途、誰れ彼れか まわず、対談した相手のアラをさがしてこきおろしゲラゲラ笑ったあと、必ず『しかしい い人ですなあ』と一言加えたものだった [夢声の動物記] 」と後年書いているが、その免 罪符に、微笑ましいゆるみの精神をみるおもいがする。そんなゆるみと野趣に溢れた戦後 の週刊誌時代は、まさに「遠くなりにけり」である。「間」の話術を駆使して「ゆるみ」 と「ユ−モア」と「品格」を滲ませた対談の仕事。幅広い人脈を紹介した『いろは交遊録 [鱒書房・昭和28年] 』にも「やっぱり人間との交渉が一番面白い」と自ら記している。

〔最後に〕
手元にある『朝日新聞出版局史 (昭和44年) 』を紐解くと、「このようなタレント (夢 声) は今後安易に現れないであろうし、第一テンポの早い現代では、もはや長大な連載を 許さないかも知れない」という記述に出会う。勿論「問答有用」に関するものだが、すで に28年前、メディアの送り手はこんな言葉を残している。その言葉に補足が許されるなら ば、「現れたとしても、このようなタレントの連載は許されないかもしれない」となるか もしれない。百花繚乱に咲きみだれる週刊誌に、枚挙に暇のない連載対談とホスト。その 始祖たる夢声は、書店の棚をにぎわすメディア論にも無視され、「話術の神様」の名も風 化の一途をたどるのみである。それはメディアを器用に歩きすぎた代償でもあり、テンポ の遅い「間」の災いでもあった。現在の『週刊朝日』連載対談は、林真理子の「マリコの 言わせてゴメン(平成9年12月現在)」である。他誌でも宮崎緑、小宮悦子、阿川佐和子 といった、徳川夢声の片鱗を伺うには程遠い、女性ホストの時代となった。(敬称略)

〔謝辞〕
貴重な資料を視聴させて下さったNHKの小野由香子様、加庭佳子様に感謝致します。

〔註〕
※1 菊地寛の提唱で昭和2年3月号『文藝春秋』に「徳富蘇峰氏座談会」として掲載。
※2 評論家。週刊誌『ヌ−ベル・リテレ−ル』の編集長時代(1923-33) に対談を連載。
※3 オペラ歌手やコ−ラスガ−ルに群がる若者の造語で、退廃的モダンボ−イを意味。
※4 久保田万太郎を宗匠に、昭和9年4月に渋谷「いとう旅館」ではじまる句会。
※5 保が嫌悪する、吉田茂との対談(清水崑が代理)記事を、その前に掲載予定の梅原龍三郎の記事と差しかえた編集部に保が激怒。人気連載は終了したといわれる。
※6 創刊9年目のメイン企画で「金と編集労力に糸目はつけぬ」と、昭和37年に開始。
※7 吉田茂の月給11万、ざるそば25円、国電初乗り10円、『週刊朝日』30円の時代。

〔参考文献(引用文献含まず)〕
『徳川夢声対談集・同行二人』(昭和25年養徳社)
『問答有用・夢声対談集』(昭和 27-36年朝日新聞社・私家版[11,12巻] )
『芸術家素描・徳川夢声との対談』(昭和30年関書院)
『対談奥義書・問答有用うらばなし』徳川夢声(昭和32年有紀書房)
『高田保対談集・ふたつの椅子』(昭和25年朝日新聞社)
『荒垣秀雄対談集・時の素顔』週刊朝日編集部編 (昭和40年恒文社)
『週刊誌・その新しい知識の形態』週刊誌研究会編 (昭和33年三一書房)
『出版社の運命を決めた一冊の本』塩澤実信(昭和55年流動出版)
『忘れられた名文たち』鴨下信一(平成6年文藝春秋)
他に『週刊朝日』『サンデ−毎日』『週刊読売』『文藝春秋』『芸術新潮』『人物往来 』等の関係各誌 [大
宅壮一文庫蔵] 、徳川夢声著作本 [筆者蔵] 、放送録音・映像資料 [NHK情報デ−タベ−ス蔵] を参考。文献は
『』連載物は「」引用・掲載誌は[]で統一。

資料 −?徳川夢声連載対談ゲスト全リスト−

〔「同行二人」「芸道漫歩対談(芸術家素描)」「問答有用」のゲストを掲載順(初出誌 )に並べた。氏名
は掲載当時のもの。〔※〕は「問答有用」2回登場者で初回分を掲載〕


〔同行二人〕? 〔問答有用〕?  西尾 末廣?  風見  章?  阿部真之助?
 片山  哲?  徳川 義親? ※三木 武吉?  永井 龍男?  湯川 秀樹?
 呉  清源?  轟 夕起子?  古賀 忠道?  中野 好夫?  秩父宮雍仁?
 ヒロセ元美?  長谷川 伸?  長谷川一夫?  津島 寿一?  前田 多門?
 八木 秀次?  大野 伴睦?  永田 雅一?  大谷 智子?J.v.スタンバ−グ?
 藤原 義江?  旭堂 南陵?  服部 良一?  市川猿之助?※長谷川如是閑?
 高峰 秀子?  牧野富太郎?  緒方 竹虎?  村岡 花子? 野村 胡堂?
 別当  薫?  高岡 智照? 松永安左ェ門?  小絲源太郎?サトウハチロ−?
 安部 能成? ※小汀 利得? 久保田万太郎?  沢田 美喜? 市川海老蔵?
 水の江滝子?  岡田 茂吉?  西崎  緑?  岩瀬英一郎? 福島繁太郎?
 楢橋  渡?  池田  潔? 勅使河原蒼風?  蜷川 虎三? 堀 久作?
古今亭志ん生?  中山 正善?  橋本宇太郎?  田中 栄一? マイク正岡?
 田中家女将?  杉浦 きみ?  小林 一三?  羽黒山政司? 前田 久吉?
尾上 梅幸? ※藤山愛一郎?  高峰三枝子?  久原房之助? 辰野 隆?
 大佛 次郎? ※橋本 凝胤?  佐佐木茂索?  伊藤 熹明? 堂本 印象?
〔芸術家素描〕? 城戸 四郎?  近藤日出造?  近衛 文麿? 大河内傳次郎?
 木暮実千代?  和歌浦糸子?  清水  崑?  獅子 文六? 御木本幸吉?
 横山 大観?  中西 悟堂?  三笠宮崇仁?  浜崎 真二? 水谷八重子?
 石井  漠?  津村 秀夫?  吉田  茂?  浅野 均一? 辻 政信?
 梅原龍三郎?  芦の家雁玉?  桂  文治?  正力松太郎? 宮田 重雄?
中村吉右衛門?  林田 十郎?  清水幾太郎?  松本治一郎? 山本為三郎?
 谷崎潤一郎?  田崎 勇三?  津久井竜男?  内田 百間? 渋沢 秀雄?
 千田 是也?  升田 幸三?  中村 汀女?  神近 市子? 浦松佐美太郎?
 山口 淑子?  大倉喜七郎? ※高峰 秀子?  木村 義雄?  武原 はん?
 東郷 青児?  中谷宇吉郎?  宮城 道雄?  喜多村緑郎?  鳥井信治郎?
 薩摩治郎八?  平林たい子? ※鳩山 一郎?  早川 雪洲?  長与 善郎?
武者小路実篤?  藤田 西湖?  芦田  均?  天野 貞祐?  徳川 頼貞?
 田中 千代? 長谷川路可?  坂西 志保   森  岩雄?  佐藤 弘人?
 高橋  衛? 藤原 義江?  中島 健蔵?  吉屋 信子? 河原崎長十郎?
 大宅 壮一? 藤岡 紫朗?  藤原 あき?  徳川 家正?  柳家金語楼?
 重光  葵? 沢田 廉三?  マキノ光雄?  池田 勇人?  越路 吹雪?
 石橋 湛山? 安田徳太郎?  鹿内 信隆?  井上  靖?  谷口 雅春?
 河上丈太郎? 三角 寛?  里見  トン? 中村メイコ?  藤原銀次郎?
 鈴木茂三郎? 古垣 鉄郎?  河合 弥八?  三輪 寿壮?  伊東 絹子?
千宗室・嘉代子? 喜多六平太?  鍋井 克之?  河野 一郎?  溝口 健二?
 花森 安治? 横山 隆一?  吾妻 徳穂?  原   彪?  丹下キヨ子?
 安井曾太郎? 福田平八郎?  広沢 虎造?  石井光次郎?  西川鯉三郎?
 木村伊兵衛? 有馬 頼寧?  伊藤  整?  塩田 良平?  荒垣 秀雄?
 渋谷のり子? 田中 敏文?  松野 鶴平? 豊竹山城少掾?  福島慎太郎?
※吉川 英治? 三船 久蔵?  藤村富美男?  松下幸之助? ※横山 泰三?
 大谷竹次郎?  近藤いね子?  浅沼稲次郎?  藤沢 嵐子?  岩井  章?
 石川 武美? 林熊男・義雄?  夏川嘉久次?  桜川 忠七?  杉村 春子?
 徳富 蘇峰?  尾崎 士郎?  桂  文楽?  北沢敬二郎?  新倉 文郎?
 藤浦  洸? 武者小路実篤?  滝田  実?  福田 恆存?  中村 扇雀?
 川口松太郎?  三田 庸子?  三益 愛子?  松内 則三?  新村  出?
 松本 俊一?  吉川幸次郎?  朝比奈宗源?  福原麟太郎?  子母澤 寛?
 内山 完造?  吉田 健一? ※岸  信介?  正木ひろし?  岸本 水府?
 森永 太平?  原 安三郎?  笠 信太郎?  渡辺紳一郎?  柳田 国男?
 渋沢 敬三?  岩田専太郎?  岡本 太郎?  志賀 義雄? 中村翫右衛門?
FSG・ピコッド? 千田 是也?  正宗 白鳥?  石橋正二郎?  小泉 信三?
 小泉 軍治?  三岸 節子?  秋山 徳蔵?  高崎達之助?  酒井 忠正?
 丹羽 文雄?  高野  実?  大達 茂雄?  天龍 三郎?  芥川比呂志?
 藤田 嗣治?  森脇 将光?  吉井  勇?  正木  亮?  大山 康晴?
F・クラウス?  堀内 敬三?  安部 能成?  武田長兵衛?  前田 友助?
田中 路子?   中泉 正徳?  金田一京助?  十河 信二?  小島政二郎?
石井 好子?   舟橋 聖一?  杉  道助?  阪本  勝?  一刀田尚登?
志賀 直哉?   山田 耕作?  江戸川乱歩?  東富士謹一?  篠原  治?
 柳家小さん? 岸 道三?   坂口謹一郎?  川鍋 秋蔵? 森繁久彌・杏子?
 北村 サヨ?  美土路昌一?  松下 正寿?  野村 洋三?  鏑木 清方?
 戸叶 里子?  織田 昭子?  牛山喜久子?  畑中 武夫?  都築 正男?
 梶井  剛?  丹下 健三?  時津風定次?  浦島亀太郎?  朝海浩一郎?
 西口 克己?  神吉 晴夫?  山田 治一?  宮坂 国人?  宮本 顕治?
 浪花千栄子?  小西 得郎?  浅野七之助?  大塚 末人?  正田健次郎?
 野坂 参三?  永田  武?  五島 慶太?  安井誠一郎?  松本 清張?
 佐藤 栄作?  田中耕太郎?  林田 重雄?  市川 壽海?  朝倉 文夫?
 片岡千惠藏?  武智 鉄二?  邱  永漢?  野村 秀雄?  山崎 豊子?
 山階 芳麿? 川喜多かしこ? フランキ−堺?  志立 タキ?  高川 秀格?
 諸橋 轍次?  田中 絹代?  飯田 蝶子?  大内 兵衛?  信夫韓一郎?
 淡島 千景?  池島 信平?  松山 義夫?  小林  武?  長島 茂雄?
 岩村 通世?  浅野 長武?  下村 海南?  大江健三郎?  犬養 道子?
 桜井 忠温?  南原  繁?  井上  梅?  加藤一二三?  東郷 青児?
 菅原 通済?  扇谷 正造?  戸田 城聖?  杉野日晴貞?  川上 哲治?
 高浜 虚子?  石田 博英?  松永  東?  西堀栄三郎?  茅  誠司?
 山下  清?  幸田  文?  鮎川 義介?  川勝 聖一?  石井  漠?
 永田  清?伊藤次郎左衛門?  成沢 玲川?  松居 桃楼?  小杉 放庵?
 槇  有恒?  森  恭三?  田中 角栄?  黒川 武雄?  谷崎潤一郎?
 森  赫子?  石原慎太郎?  上野 精一?  渡辺武次郎?  徳川圀順?
 天津 乙女?  中村 純一?  角川 源義?  松山 茂助?〔掲載号不明〕?
 柴田田鶴子?  門脇 季光?  野上弥生子?  中村 時蔵?  村山 長挙?
 森戸 辰男?  今  東光?  永野 重雄?  富田幸次郎?〔対談未掲載〕?
 飛田 徳穂?  今井 義一?  緒方知三郎?  山田  穰?  B・リ−チ?
 平野 零児?  鈴川  勇?  遠藤斉知朗?  有吉佐和子?  柳  宗悦?
 瀧村 平蔵?  真山 美保?  吉川 義雄?  石原裕次郎?  美空ひばり?
 石川 達三?  望月 優子?  渋谷 天外?  関牧  翁?  藤本 真澄?
 宮城まり子?  松田 利七?  高田 博厚?  安藤 鶴夫?  長谷川春子?
 谷  洋子?  貝塚 茂樹?  朝田善之助?  加東 大介?J・デュビビエ?
R・ルサ−ブル? 小林 橘川?  小林  勇?  河井寛次郎? M・モルガン?