芸術パトロン考−パトロン機能の分解と効用−
 1997年度卒業論文
牧野香織 

はじめに

世界に芸術(Kunst、Arte)という言葉が誕生するとともに、「芸術」を庇護する(Patronage:パトロナージュ)者としてのパトロン(Patron)(*0)という立場が生まれた。そして、パトロンは自身の巨大な富と独自の審美眼によって、芸術家の生活と制作を促し、助ける存在であったと同時に、芸術そのものを庇護する重要な役割を果たしてきた。いわゆる「職人(artefici)」ではない「芸術家(artista)」という地位が確立したとされる16世紀以降(*1)、芸術家にとってパトロンは生活と制作、また精神的な面での支えとなり、作家およびその作品の最大の理解者の一人であった。言い方を変えれば、芸術家はパトロンの存在なしには成立し得なかった。

現在、資本主義経済の進展と資本の分散、中流階級層の増加でいわゆる巨大なパトロンが姿を消した。そして芸術を庇護する役割は、「パトロナージュ」という名から「メセナ(Mecenat)」という呼び名に変えられながら、政府ないしは企業へと移されようとしている。

20世紀後半以降、美術の分野の閉塞状態が叫ばれているが、実はこうした芸術の理解者であるパトロンの不在が遠因ではなかろうか。私は、諸外国に比べ日本の現代作家が育ちにくい要因の一つに、芸術庇護方法の細分化、つまりパトロン機能の細分化とその機能の欠落に要因があるのではないかと仮定した。ここでは特に芸術分野を美術に限定し、分析を試みながら、現代日本の芸術のパトロナージュの実状を検討したい。

芸術を取り巻く分子 パトロン

西洋芸術の歴史を概観して見ると、これらを構成する物として、芸術作品と、作品を生みだす芸術家、および、作品もしくは作家自身を享受する主体が存在することがわかる。古くは、ギリシャ・ローマ時代の裕福な市民層(コレゴス)、ローマ皇帝にはじまり、中世以降は、イタリアのメディチ家などの大商人、ローマ教会や教皇などの権力者がその主役となった。一介の職人が芸術家となりえたのは、こうした享受者が、作品もしくは作家に対して、それらが含有する美と価値を理解し、それらに対してなんらかの対価を払うという関係が生まれたためだといえる。パトロンの形として一般的な15世紀の宮廷画家の例で見れば、レオナルド・ダ・ヴィンチがパトロンのミラノのルドヴィコ・スフォルツァとの間で雇われていた年俸は2000ドゥカティ(約20万フランといわれている)であった。(*2)

日本でも、宮廷画家・宮廷絵師という存在は古くからあった。9世紀の中頃には宮中に絵所という役所があり、統括する廷臣として官名を持った絵師がいたとされている。

芸術の享受者は、気に入った作品を手に入れるため、作家を身辺に置いて創作をさせた(*3)。作家を丸抱えして芸術を享受していたわけであるが、かれらは経済的な面を引き受けていただけでなく、作家の持つ独自の技量やそこから生まれる芸術作品に対する理解と評価が可能であった存在であったといえる。つまりパトロンとは、「単に芸術作品の経済的、物質的担い手ということだけでなく、芸術家を理解し、作品を評価して、芸術家に支援を与える人々のこと」(*4)である(*5)。単に「人々」というよりは、それらの産物を享受する者であることからむしろ「支援を与える享受者」と範囲を絞った方が適切であろう。

パトロン機能の解体

芸術作品を享受する形態としては、鑑賞、購入、収集の3つに大別できる。芸術を理解する担い手としての役割を果たしてきたパトロンにとっては、以上の3つの形態は完全に一致するものであった(*6)。 つまり、ある芸術家およびその作品に対する理解と愛情などから、芸術作品を「目利き」し、購入・収集し、鑑賞するという行為にいたるということができる。

庇護する行為をパトロナージュと呼ぶが、パトロナージュには、作家の衣食住という生活全般を引き受けるものから、作品の購入にとどまるものなど、様々な形態がある。パトロナージュの形態は対象別に大きく3種類に分けられる。@作家自身に対する支援を主眼とするもの、A個々の作品に対する支援を主眼とするもの、B双方を含めた包括的な支援、である。

富の集中していた近代以前は、Bの包括的な支援形式が普通であった。いわゆる「丸抱え」で、作家はパトロンのもとで暮らし、制作に関わる経費を依存し、一方で作品はパトロンに帰属させるというものである。

経済的・政治的主権が国民(市民)に移った19世紀末の近代画商の誕生と美術市場というマーケットの誕生などにより、作品がすべて契約により特定のパトロンに帰属するという形から、売買契約を通じて作品を購入する形でのパトロナージュの主形式となった(*7)。同時に留学費用や奨学金などの支援のようにいわば作品の入手を伴わないものも増え、逆に包括的な支援という形式は減少していった。これには、財力のある市民層が生まれ、規模的には大きくなくとも、美術作品の収集役として参加し始めたことと、それに伴い中世から存在していた絵画商人が画商として大きな役割を果たすようになったことが背景にある。作家から直接絵画を購入し、代金の支払という形で作家に資金を渡すという点では、画商は従来のパトロンの成してきた役割の一端を担い始めたということができる。

パトロンが芸術の愛好者であり理解者であるということは、つまりパトロナージュの意味とは作品または制作に対する資金提供というだけでなく、制作を鼓舞するいわゆるアイデアやインスピレーションの源でもあるということだ。17世紀のフランスではポンパドール婦人をはじめとする王侯貴族がその役割を果たし、彼らの肖像画は当時の作家の代表作となった。宮廷などのパトロンによる社交界は、芸術家らにとっても一種のサロンとして機能してきた(*8)。19世紀半ば、フランスの資産家デュラン・リュエルは、自身が経営する画廊を通じ、当時まだ認められていなかった印象派や、コローやミレーなどバルビゾン派の画家たちに対し、作品の買い取りや展覧会の開催を積み重ねた。これらは経済的な面での支援となったばかりではなく、当時のアカデミー中心主義の芸術観が大勢の中、画家にとって精神的な庇護となったことは説明するに難くない。

包括的パトロナージュの形態が減ると同時に芸術をめぐる関係が細分化・複雑化した結果、元来のパトロンの役割(目利き・鑑識、購入、収集、鑑賞)も同時に細分化されていく。つまり、作家から作品を購入するという役割は画商に、作品についての理解や鑑識は批評家に、作家や作品を世間または外部に広める役割は美術ジャーナリズムやマスコミに、収集は蒐集家や美術館などに、鑑賞は観客に、と分解されていった

これらの分解された役割は芸術作品と芸術家の制作の経済的分野であるということが可能だ。一方で、パトロンの持つ経済的支援という機能だけでなく、制作における精神的な支援という機能も分断された。つまり、精神的な支援の背景にあるものは、作家の才能や作品に対する理解と愛情であり、これらは、作品の注文や買い受け、展示、収集、ひいては愛好家として作者と接するといった一連の行為によって作家側に確認されるものだ。こうしたパトロンの支援行為の一連性が、作家側から目に見えない場合、作家側は精神面での寄る辺をパトロンに見出せなくなる。つまり、パトロンの経済的役割の解体は、パトロンの精神的役割の存在をも解体し喪失させる結果となったわけだ(*9)。

「メセナ」の誕生

20世紀においても、資産家や実業家といった人物は、依然として作家にとってパトロンとしての役割を果たし続けている。アメリカでジャクソン・ポロックをはじめとする現代美術作家の作品を積極的に購入し、いわゆる「今世紀の芸術」を論ずる場「ニューヨーク・スクール」を提供し、現代作家らのサロン的役割を果たすなど様々な形のパトロナージュを行ったペギー・グッケンハイムや、フランスのルーブル百貨店の所有者ショシャールなどがいる。日本においては、倉敷紡績(現クラボウ)の創設者で児島虎次郎らを庇護し、倉敷に大原美術館を建設した大原孫三郎、「具体」など現代美術作家たちの支援に尽くした山村徳太郎などが有名である。

国家政府もパトロンとしての役割を担っている。フランス革命によって王朝所有の芸術財産が政府のものとなったという歴史を持つフランスでは、芸術の庇護は国家主導によるものが多い。フランスでは1951年以来法律により、民間の建築費用の1パーセントを芸術部門に使うことを義務づけている。66年に仏政府が提出した国家の芸術保護に関する報告書でも「かっての王侯たちの芸術にたいする責任を国が受け継いでいることは明らか」として、国がフランス芸術のパトロンであることを自認している。日本の場合、明治政府および皇室のもとで美術・工芸分野の育成が図られてきたという歴史を持つ。だがフランスのように法による規定はなく、国家予算の金額もわずかにとどまっている。アメリカでは、フランスのように国家主導ではないものの、州レベルで法律を制定し、芸術の保護育成を進めている。

むしろ、アメリカでは企業が主体となった芸術・文化支援が多い。アメリカでは「企業は一つの社会的制度であり、限定された意味での公益活動はみとめられるべき」(*10)との考えが企業経営の基礎理念となっており、企業による慈善事業や文化活動が企業活動の一部と考えている。つまり個人にかわって企業がパトロンとしての役割を果たすようになった

企業によるパトロナージュは日本においてはまだ歴史が浅い。利益第一主義で高度経済成長を遂げた日本企業が、国際的企業として欠如していた部分、つまり利益の社会還元の後れを補う方法として、欧米に倣う形で文化活動を支援が注目されるようになったのが、企業による文化支援活動の端緒である。

こうした文化支援活動は、フランス語で「文化・芸術を支援すること」の意を持つ「メセナ」を用い、企業によるものを特に「企業メセナ」と呼ぶのが一般化しており、大企業を中心に多くの企業が何らかの形でこの文化支援活動に参加している(*11)。トヨタ自動車や花王などは財団を作り、財団を通じてメセナ活動を行っている。

この企業メセナは、一般的に音楽会や演劇、美術展などの後援として資金や物資を提供するというケースが多くを占め、美術作品の購入などの支援形態の割合は非常に少ない(*12)。また支援形式は、絵画などの美術についてみれば、展覧会、公募展の開催などが圧倒的に多く、制作過程に関わる支援、例えば継続的な作品購入などの方法はなかなか見られないのが現状である。また、人的な支援についての不足の訴えられているが、なかでも創作活動のなかでもっとも重要な部分というべきinspire(触発、鼓舞)の場所や機会の提供といったいわば空間的な面での支援がなされないでいる。(*13)。

本来パトロナージュが、単に芸術作品の経済的、物質的担い手ということだけでなく、「芸術家を理解し、作品を評価して、芸術家に支援を与えるもの」である限り、パトロンの持つ経済的支援という機能だけでなく、制作における精神的な支援という機能が不可欠だ。だが企業メセナに使われる費用は企業内部の調整を経てはじめて、寄付または広告費という形で出資されることから、「芸術家を理解するまたは作品を評価して」という部分、つまり庇護する理由としてその作家または作品に対する庇護主体側の主観的な趣味や愛着というものがかなり抜け落ちる。ひいては、イベント的な性格が大きく、販促・広告という形で帳簿に計上しやすい音楽会や展覧会への協賛がメセナの主流になってしまう。

本来のパトロナージュは「芸術家への理解、評価」に基づくものである限り、継続的かつ長期的なものであるのが自然な形であるが、企業メセナの場合はそうした支援が難しい。景気拡大期には支援企業数は大きく増えるが、景気低迷期には増加率が落ち込むなど、企業収益に大きく左右されるという面もある。

結局、企業メセナは、いわゆるそれまでのパトロンの果たしてきた庇護とは異なるものだ。それは、芸術家と作品とパトロンとの間に芸術に関わる主体の数が増えてしまいパトロンの機能が細分化し、本来のパトロナージュが解体されてしまったためである。同時に、そうしたパトロナージュではなくなったからこそ企業が「パトロン」ではなく「メセナ」という形で、芸術に関われるようになったのだということができよう。その意味では文化支援活動をする企業を「パトロン」と呼ばず「メセナ」と呼んでいるのはある意味で正しい。

ただ、こうした狭義の芸術支援が標準となることは、文化や芸術が看過できない規模の経済効果を生む出すことを考えた場合、純粋支援の意味で企業が取り組んだメセナであっても、一瞬のうちにただの宣伝・販促活動と実質的には何らかわらないという事態になりかねない。1995年度の企業メセナの支援形態についての調査によると、調査対象企業のうちの92.7%が資金的な援助であり、財源内容は寄付金が53.1%、文化事業費が11.7%、宣伝広告費が52.3%、広報費が18.4%、販促費が9.6%となっている。前2項目の合計よりも、後3項目の合計の方がはるかに多い。企業メセナが、企業イメージ向上のためのPR活動として捕らえられ、最終的には営業活動の一環の域から抜け出ていない。作家の創作活動は直接的ではないにせよ企業の商業活動の一環に取り込まれていくことになる。ハンス・ハーケがその作品”Concrete,Cartie gold watch with case and certificate of authenticiy” で、文化や美を追求し、人々に幸せをととなえるカルティエが、南アフリカのアパルトヘイトの元凶となっているという現実、同時に芸術やアートがそれらの企業によってイメージアップに利用されている実態を訴えている。ハーケはこのほかにも、企業イメージと消費社会をテーマに様々な作品を作っている。文化や芸術、人間性などを謳う一方で実活動として、環境を破壊しており、その企業に取り込まれ支えられている芸術を、無力なものとして揶揄している。14世紀、芸術家の誕生と同時に産声を上げたパトロンという存在の絶対数が減るに従い、商業主義に絡め取られていかざるをえない姿は、企業による芸術支援活動を手放しで喜べない現代における芸術の悲哀でもある。

メセナを越えて

95年、5人の作家たちが東京都立川市の旧リッカー株式会社の工場食堂跡を共同アトリエとして使いはじめたことから始まった、「スタジオ食堂」という芸術家集団がある。当初はアトリエとしての機能だけだった「スタジオ食堂」はやがてギャラリー的機能を持ちはじめ、多種多様な参加者の増加とともに、芸術家団体としての性格を持ちはじめた。現在では、プランナーなどの運営スタッフも加わり、まさに作家組合(ギルド)的様相を持った集団である。96年建物の取り壊しが決定、移転先を探していたところ、現在の立川市立飛に落ち着いた。スペースを提供している立飛企業は、「スタジオ食堂」の活動の地域性に共感し、低価格で工場を提供しているという。

立飛企業とスタジオ食堂との関係で興味深いのは、芸術家にたいする空間的・場所的な支援であるという点だ。作家にとって創作の場であるアトリエと作品を保管する倉庫(実はもっともこの分野に関する支援が得られない部分であるという。)、発表の場であるギャラリーという各機能は、以前はパトロンが提供してきたものである。芸術家が自立する流れの中でも、パトロンは創作に直結する部分としてアトリエ、倉庫、展示場所の提供というジャンルで支援してきた。中世までは、お抱えという形で、それ以後も、もっと拘束力の少ない形で制作に関わる空間的支援を続けてきたのである。これが企業メセナという支援形態になった途端、もっとも見過ごされやすい分野にとって変わった。拘束力を持たないということは作家側の衣食住などの基本的な経済に付いては関与しないということだ。作家はあくまでも外部のもので、従業員ではありえないためだ。

スタジオ食堂の場合は、 各作家がそれぞれ作家活動のほかに仕事を持つ。美術関連の仕事に付いているものもいるが、まったく畑違いの職業についているものもいる。つまり、作品創作以外のところで基本収入を得ておいるわけだ。従来の作家とはその点で大きく異なる芸術家集団ということができる。ヨーロッパ中世のオランダに見られた画家組合や日本の町絵師集団などとは違い、作家活動に衣食住などの生活部分が関与しない珍しい形態である。

言い方を変えれば、生活が関わらない分、支援の趣旨と目的がが絞り込まれ明確になるという事が出来る。そうであるからこそ、企業という主体にとって、参画しやすいわけだ。作家の経済的な独立は、パトロンの機能分解を生むが、同時に作家側の経済的基盤を細分化し芸術活動から独立させることも可能にした。その結果、スタジオ食堂と立飛企業のように、金銭という形よりはむしろ、創作や展示、保管などに伴う場所の提供という部分へのパトロナージュという関係が成り立つのである。作家と企業、それぞれとって芸術創作という分野で基本的経済活動から独立している場合は、「お抱え」のような包括的な庇護や資金提供でなくとも、パトロナージュとしての効果が発揮できることになる。これは、企業だけではなく、政府その他あらゆるメセナの主体に当てはまる。

結び

芸術というジャンルが、単なる「趣味判断」ではなく、アートとしてマスプロダクツや資本主義経済と結びつくようになった現代、作家の活躍できるフィールドは大きく広がった。このため、パトロン機能が分解しメセナによるものが主流となっても、それなりの意義があり、また需要もある。

だが、作家活動と生活が直結しなくてもすむようになってようやく、芸術の支援というものは、資金提供だけではなく、むしろ作品や作家への理解であり、そうした関係性をも含んだ作家と作品にかかわる空間や場所(時間といったものも含まれよう)の提供の比重が大きいことが明白になったといえる。

昨今、銅像彫刻などの公共的な芸術作品、いわゆるパブリック・アートや、作家が作品を設置する予定の場所に滞在し作品を作るアート・イン・レジデンスといった手法、作品の場所論が注目を集めているのは、おそらく、本来の芸術支援として作家や作品をとりまく空間の提供の必然性が気づかれ始めたからではないか。もっともわかりやすいのが展示場所の提供ではないかと思うが、同時に、作家やそれ以外の者との交流の場や、制作の場、作品保存の場などがより重要な役割をもっているように思う。包括的パトロンの減少で大きく欠落したのは、空間的・環境的パトロナージュである。作家と作品を取り巻く環境の充実は、新たな芸術の潮流の誕生に結びつく無限の可能性を秘めている。



注釈

(*0)パトロンとは、キリスト教における守護聖徒の意。中世には、聖書に登場する人物のうち関係の深い者をパトロン神とする同業組合やギルドが多く存在した。画家の場合は同業組合として聖ルカをパトロン神とした同業者組合があった。(文献2)こうした組合画家についての考察は割愛する。

(*1)すでに15世紀のイタリアでは、宮廷 画家や建築家・彫刻家は、職人という身分では考えられない待遇(たとえば、王侯や教皇に謁見し、宮中を行き来するなど)を手にしていたものもいた(ラファエロなど)。実際に「芸術家」という地位が確立されたのは、ドイツのアルブレヒト・デューラー(1471-1528)以降のこととされている。

(*2)この時代には、芸術家とパトロンとの間に雇用関係などの契約は存在していた。(文献2)。だが、芸術家が、権力者と社会的に対等な立場で、(テーマや内容を含めて)自由に作品を作るようになったのは、19世紀のクールベ以降のことであるとされている。

(*3)たとえば、15世紀イタリアのミケランジェロは、フィレンツェのメディチ家に仕えていたが、ローマ教皇クレメンス7世がミケランジェロをいたく気に入り、領内の聖ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の装飾のため彼を呼び寄せたとされている。

(*4)文献1、p8

(*5)パトロンと呼ばれてきた人物の中には、作品を理解することが出来るものばかりだったとは限らない。例 ロシアのエカティエリーナ2世の夫であったピョートル大帝など。

(*6)近代(18世紀)以降のフランスでは、作品に対する愛情より、むしろ絵画を蒐集することにある種のステイタスを見出す者が中産階級の間に出現しはじめた。パトロンにおける3つの形態が分解しはじめた最初である。(『コレクション』より。)これが現代のパトロナージュにおける問題点の所在点であることは後述する。

(*7)このほか同時代に起きた、美術館・美術展、画廊、美術批評、ニュースペーパーの誕生、それらの成熟に伴う観客という存在の成立など様々な要因がある。

(*8)日本でも、画家に絵を習い、仲間の作家を援助した小林和作などがいる。小林和作は鹿子木孟郎の門下に入りながら、仲間の作家林重義を生活、制作両面にわたって支援。二科会出展者の集まりに連れて行くなどしたほか、「独立美術協会」会員へ積極的に関わった。

(*9)精神面での支援という意味では、その作家や作品の愛好家やファン、観客というものも存在することは確かである。だが、音楽や舞台芸術と異なり美術の場合の作品は、作品の収集ないしは継続的な展示がその作品の評価となるわけであり、こうした行為に間接的にも結びつきにくい美術館の観客などは、パトロナージュとは異なる。愛好家やファンらは、作家の理解者の一部であることには変わりないが、作家は最終的にはパトロンを探さなければならないわけである。

(*10)Corporate Powers as Powers in TrustA.Berle,1931 または、For Whom Are Corporate Managers Trustees? E.Dodd,1935

(*11)1990年には社団法人企業メセナ協議会が発足した。

(*12)企業メセナの支援対象芸術は圧倒的に音楽が多い。(件数のうちの41.4%)美術は約半分の23.1%である。以下は美術などの視覚分野を中心に進める。『企業メセナ白書1996』より。

(*13)『企業メセナ白書1996』p33、p34。作家側の「企業にもっとも望むメセナ活動」では、視覚芸術(絵画、造形など)総回答数107のうち、「創作活動への支援」が回答数52、「作品の購入」が同45、「展覧会への援助」が同28、育成・奨学が同26となっている。絵画等のジャンルについては、企業側がパトロンとしての役割を果たしきれていない。

また、「芸術文化施設に望むこと」では、視覚芸術の場合、最も多かったのが、「スタッフの充実」で56、「企画内容の充実」が46、「広報・集客力」は11、「使用料の値下げ」は3だった。

参考文献

1『芸術のパトロンたち』高階秀爾 岩波新書1997

2『土方定一著作集1 呪術師 職人 画家と美術市場』土方定一 平凡社 1976

3『日本洋画の人脈』 田中譲 新潮社 2版 1975

4『画商の想出』A.ヴォラール 小山敬三訳 美術出版社

5『NHKルーブル美術館「 フランス芸術の華 ルイ王朝時代』日本放送協会 1990

6『企業メセナ白書1996』『企業メセナ白書1997』(社)企業メセナ協議会編 ダイヤモンド社 1996、1997

その他の参考文献

『わしの目は10年先が見える』新潮文庫 城山三郎

季刊メセナ28〜30号 S企業メセナ協議会

『現代の美術コレクター 美術館をつくった人々』 日本経済新聞社 田中日佐夫 1995

『コレクション』

Bodenlos H.Haacke Edition Cantz 1993

兵庫県立近代美術館所蔵品目録