シンディ・シャーマンの「ヒストリー・ポートレイト」をめぐって
 セルフ・ポートレイトと偽装性
 2001年度卒業論文
大谷暢子  
(29851056)

「セルフ・ポートレイト」とは、撮影者と被写体が同一人物であるものをさすが、表現方法は様々で、そこで表象される「セルフ」は同一ではない。多様な表現・演出が示唆するように、作家自身の制作意図や主張、あるいはアイデンティティなど、作品に刻印される「セルフ」の内包は多様である。しかし注目したいのは、むしろセルフ・ポートレイトでありながらも、時に被写体の特定が困難で、表現されているはずの「セルフ」そのものが作品の中で空洞化しているように見えるポートレイトである。自写像であるにもかかわらず、被写体が特定できない写真は何を表現しているのだろうか。  そうしたポートレイトを数多く打ち出した作家にシンディ・シャーマン(Cindy Sherman, 1954-)がいる。シャーマンは偽装した写真を撮り続けている作家の一人であるが、作品は自写像であるにもかかわらず、作品は複数の人物のポートレイトのようであり、「セルフ」を描写する自写像とは異なっている。従来の自写像が、演出されてはいても被写体の「セルフ」を写しだす〈鏡〉であるとするならば、シャーマンの自写像は、いわばイメージを写しだす〈鏡〉といえるだろう。
第1章と第2章では、シャーマンのデビューから約20年の活動と、批評家たちがどのように評価してきたかを振り返った。一貫して偽装した自写像を制作しているシャーマンであるが、作品には、通底する3つの共通点を指摘することができる。1つ目は、被写体が作家自身であること、2つ目は偽装していること、最後は、初期作品を除いてタイトルが全て「無題」で統一されていることである。
このようなシャーマンの作品は、当初から多くの批評家たちの注目を集めてきたが、フェミニズムなどの社会学的な批評を始め様々な解釈がなされてきた。しかし、鑑賞者の様々な潜在イメージを借用し虚構の世界を表現する彼女の作品を、1つの枠組みで捉えることは困難である。何故なら、作品は作家の自写像であると同時に、鑑賞者のイメージを写しだしたポートレイトともいうことができるからである。次章からは、筆者が、シャーマンの転機と考えるシリーズ「ヒストリー・ポートレイト」(1990年発表)を例に、「オリジナルなきコピー」、「曖昧な」既視感の消失、「物語性の拒否」という3つの問題をあげ、シャーマンの特異性であるセルフ・ポートレイトと偽装性について考察する。
まず第3章は、既視感を覚えさせるシャーマンの作品が、「オリジナルなきコピー」であることを確認した上で、森村泰昌(1951-)の名画を擬装した自写像と比較したところ、シャーマンの偽装の身振りは、身体のすべてを作り替えることで、オリジナルの不在にもかかわらず、鑑賞者に既視感を起こさせることに重点が置かれていることがわかった。シャーマンの「オリジナルなきコピー」としての作品は、自らの「セルフ」を空洞化させることで、鑑賞者のイメージを反映する虚像のポートレイトでもあることを示唆しているのである。
次に第4章では、「曖昧な」既視感の消失について考察した。従来の作品を見たときに感じる既視感は、鑑賞者の経験によって想起させられるもので、常に「曖昧さ」の中にあった。しかし「ヒストリー・ポートレイト」は、鑑賞者の注意をモデルそのものに向けるように演出し、「曖昧な」既視感を消失させている。この転機は、自己と鏡像を同一視するような錯覚の中にいる鑑賞者に「セルフ」の意味を問いかけ、そしてまた、シャーマン自身の活動の転機をも示している。つまり彼女の作品は、従来の虚構の表現から、自写像でありながらも、彼女自身の身体は「セルフ」を空洞化した記号へと、意識的に転換したことを示しているのである。
最後に第5章「物語性の拒否」では、偽装した自写像でアイデンティティを表現したクロード・カーアン(Claude Cahun, 1894-1954)と比較し、シャーマンの偽装の特異性について考察した。カーアンとシャーマンの偽装は類似しているが、シャーマンはイメージを偽装しているため、表現されているはずの「セルフ」が作品の中で空洞化して見えるところに違いがある。このような彼女の作品は、一点一点が物語を獲得しているように見せかけながらも、イメージを反映する〈鏡〉に過ぎないのである。
以上のようなことから、「ヒストリー・ポートレイト」におけるシャーマンの偽装は、現実とイメージとの差異をも記号化して「現実」の意味を不明瞭にし、鑑賞者に「現実とは何か」という個別的な問題へと能動的に向かわせていることがわかった。シンディ・シャーマンの偽装する自写像は、作家と被写体が同一という点で彼女の「セルフ・ポートレイト」であると同時に、鑑賞者にも作品のイメージを追体験させるような我々の〈セルフ・ポートレイト〉なのである。