1910年代の都市表現
 萬鉄五郎の場合
 2001年度卒業論文
菅原孝美 
(29851118)

(序)

1910年代、西洋の表現法の移植とともに、日本の画家達は、その多くを吸収しようと務めた。中でも萬鉄五郎(1885〜1927)は、常に画壇の先頭に立ち新しい表現法を摂取し残している。変貌する都市風景を「萬は、どのように受けとめ、表現したのであろうか?」
これより、問題を2点に区別し考察したい。1つは、萬は、どのように都市を捉えようとしたのか?都市を視覚表現する時、何を対象に、どんな影響をうけたのかを分析する。2つめは、どのような目的で制作されたか?を明らかにする。萬のこれまで比較されなかった芸術の周辺にあらわれた(挿画等)などに着目し、都市に関する意識を追及したい。

(第1章)

萬の制作について 1910年代の日本画壇は、印象派以降の新しい傾向の作品が『白樺』など文芸雑誌他で紹介されるにつれ、個性の尊重に傾いていった。この時、画家の多くが挿画に関わり、挿画専門の画家が活躍するなど、画業以外での道を選べるようにもなっていく。西洋の表現法の影響と美術の大衆化がすすむ中で、萬の制作活動はそのように展開するのであろうか?萬の制作をふりかえると2つの特徴が確認できる。まず、1910年代の制作については、多くの美術団体と関わり、油彩、水彩、水墨、木版画・エッチング・雑誌の挿画・ポスターまでと多岐にわたり制作し、中でも芸術座のポスターで好評を得ている。その後1912〜14年のみ、都市を題材にした作品《煙突のある風景》《仁丹》《仁丹とガス燈》《ガス燈》が描かれる。
さらに、制作現場の場として、メンバーが、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎他により「ヒュウザン会」との接点を得る、ここでの作風は後期印象派以降が多く、萬の作品は評価されずに、第2回ヒュウザン会展開催後、会は解散してしまい発表の場を失ってしまう。そして萬作品には《煙突のある風景》に認められる「心的印象を象徴的に具体化する」という表現法が示されることになる。

(第2章) 同時代の油彩画の特徴、都市を視覚表現する時の要素(題材、表現法)は?

新しい表現法の移植は、西洋の流れに添うものではなかった。そして、油彩画に影響を与えた『白樺』図版類の傾向は、後期印象派のセザンヌ、ゴッホとルネサンス以降の作者が多くみられ、自画像・肖像画・裸体画など人間をとらえた主題が、風景画より多く、都市を題材にした図版は見当たらないという特徴が得られた。  『白樺』図版類の傾向より、洋画家の都市への視覚的表現は、マリネッティの「未来派宣言」からの記述が有力である。

(第3章)1900〜10年代 新しい風景画の誕生

明治初期以降、記録的風景画〜名勝画的風景画〜印象派的表現を試みた都市風景〜主題よりも「自己の表現」へ傾いた風景画が描かれ、油彩画での「画家の主観的都市風景=新しい風景画」を生むようになった。ここでは、具体的に「新しい風景画」について〈萬作品と他の洋画家との作品比較〉を試みる。小絲源太郎作《屋根の都》《人ごみ》は、文展入賞作であり、印象派と後期印象派の感化が示されている。萬鉄五郎作《煙突のある風景》は、後期印象派以降の感化が強く、人の気配がない。岸田劉生作《銀座風景》《虎の門風景》は後期印象派とフォーヴィズムの感化が認められる。対して萬の画中には、人の気配がないのである。つまり、都市という題材においての「人物否定」が認められる。

(第4章)萬の都市表現 なぜ描かれたのか?

第3章より、他の洋画家と比べ、独自の表現をしており、未来派宣言の記述からの影響(煙突・ネオン)が示されている。描かれた目的は、題材と表現法とで、西洋の新しい動向を取り入れた作品の評価を画壇に問うためと推測できる。1912年より、萬の雑誌類の挿画制作が盛んとなり、萬の都市に対する新鮮な興味は、挿画で表現される。目的は、都市とその人々を記録するためでもあった。

(まとめ)

萬の都市表現の特色は、第1に西洋の新しい表現法や題材を図版や評論などの要素から吸収したため、これらの要素を反映させた作風となった。第2として、ここでの、新しい風景画は「自己の表現」へ傾いた風景画を定着させ、萬の油彩画での「主観的な都市風景」を生んだ。一方、モダンな都市風景を挿画にして、実景に基づきユーモラスに表現している。この期間は、ほんの数年であった。そして、萬が1910年代に試みた「都市を象徴するもので捉えた手法」こそ、新しい時代感覚に反応した彼だから表現できた独創的な作風だったと言えるのである。