序文 ◆問題提起 ウォーホルの多様な仕事=20世紀をうつす鏡としての役割 ウォーホルの多様な仕事は20世紀をうつす鏡としての役割を持っている。アメリカ文化の影響なしに考えられない日本の戦後世代にとっても、彼の作品を研究することは自分たちを見つめ直すことにつながっていくのではないだろうか。 ◆研究の方法‐「靴」というモティーフ ウォーホルにとって靴は単なる商品という以上の意味を持つ 様々のモティーフのうち特に「靴」を取り上げたい。彼にとって靴は単なる商品という以上の意味を持つものなので、フェティッシュとしての靴について詳しく考えてみたいと思う。同時期に描かれた青年のヌードの絵など、公の指示を得なかった同性愛的傾向の強い絵と靴の絵との比較を通して、靴が彼にとってどういう意味を持っていたのかが分析できるのではないか。 ◆先行研究 “The Stars and There Personified Shoe Portraits”by Wurttebergischer Kunstverein(スターとペルソナ化した靴、1976年)と題された論文を先行研究として参考にする。この論文ではウォーホルが50年代に描いた靴のうち私的な色合いが強いもの、中でもアメリカの映画スターを擬人化した靴の肖像画というべきものを取り上げて分析している。当時スターであったジュディ・ガーランドとジェームズ・ディーンを古風なブーツの形をかりて、それぞれの特徴を適確に描写した2枚の絵がその分析の対象となっている。 ◆見通し この卒業研究を通して、ウォーホルが生涯抱えていたと思われるマイノリティとしての自己のアイデンティティと社会との関係性といった本質的な部分に少しでも迫れればと考えている。
本文 1、50年代の行事 ウォーホルはコマーシャル・アートをどのようにとらていたのか? 当時の作品を見ても、広告用の靴の絵と私的な靴の絵の区別は一見しただけではわからない。ウォーホルはコマーシャルアートとファインアートを等価にとらえていたのだろうか。
2、ウォーホルが「靴」に加えた操作(ズレ) 米50年代消費社会の中での文化コードとしての靴には「アメリカの女性は明るく健康的で美しい」というメッセージがある。それは、豊な社会、明るい家庭生活、電化製品、車、スポーツ、ショッピングなどをイメージさせる。それに対しウォーホルは、社会が規定した女性らしさを表現するものとしての靴ではなく、自己主張する靴の肖像を描いている。
3、私的な「靴」と公的な「靴」 私的なものほど装飾的になる 私的にも公的にも、この時期「靴」を描くことが多かったわけだが、両者に違いはあるのだろうか。一見しただけではその差異はあまり分からないが、具体的に作品を取り上げ比較してみたい。
4、「靴」へのフェティシズム ウォーホルは「ゲイは美しい」というメッセージを靴に込めたのではないか? 57年にウォーホルは『ボーイ・ブック』シリーズで個展を開こうと考えたが主題が刺激的すぎるという理由で却下され、他の表現を探るしかなかった。そこで「靴」に『ボーイ・ブック』の主題を託したのではないかと私は考える。靴を性的なものの象徴として表現することは特に珍しいことではないようだ。彼は「ゲイは美しい」というメッセージを靴に込めたのではないかというのが私の考えだが、では彼はなぜそのようなメッセージを伝えようとしたのだろうか。そこで、私は靴が持つ実用性と装飾性の二面性に着目したい。彼にとっては両方が重要だったのではないかと考えるからだ。美的な意味から装飾性のほうは当然だとしても、実用性のほうはなぜ重要であるといえるのか。それは靴が広告によって宣伝される実用的な商品であることから説明できるだろう。要するに靴には社会的なニーズがある。このニーズつまり社会的な認知こそウォーホルが求めてやまなかったものではなかったか。靴は美しさと社会的認知という彼が求める条件をクリアする恰好のモティーフだったのではないか。
5、むすび‐スター 擬人化された靴の絵から、スターの肖像画へ受け継がれるたものとは? 60年代にファインアーティストとして制作したシルクスクリーン絵画、特にスターをイコン的に描いたものには、50年代の主題が受け継がれているのではないだろうか。作品分析を通してマクロな視点からウォーホルのアイデンティティの問題を考察し総括する。
|