能『井筒』の−男女一体による−美
 2002年度卒業論文要約
今井好 
(29851043)



能『井筒』は六百年の歳月を経て、今もなお世阿弥夢幻能の代表作として生きつづけている。それは能『井筒』の中にかもし出される美が観客の心を魅了するからである。その美は昔をなつかしむ男を偲ぶ移り舞、一叢すすきが情緒をそえる井筒の中の水鏡に映る我が姿を心ゆくまで見つめる情景にある。恋しい男の衣をまとい、女とも男とも見えない姿を水鏡に映す。その水鏡に女は何を映し見たのであろうか。舞台の上で男と女を幾重にも移し変えながら、童男、童女の心あそび、また過し日の男と女の情念を昇華し「‐男女一体による−美」として水鏡に映し出したのである。世阿弥はこの美によって何を伝えようとしたのか。この美をどのようにつくり上げたのかを、彼の境涯、時代背景、作品の表現法により考察する。

(一)世阿弥の境涯・時代背景

世阿弥は自分の一生を能楽にかけた人物である。能作者であり、演者でもあった。伝来の申楽能に曲舞の様式をとり入れた観阿弥を父に持つ世阿弥は、少年期に当時の将軍足利義満、公家の二条良基らの寵愛を受け、又父の影響によって得た教養や文学的要素を身につけ、それを十分に活かす。当時の貴族的な社会では芸能に対して格調の高いものが求められ、世阿弥はその時代に即応出来るよう、また相伝にも役立たせるために「花伝」を始め数種の能楽論を編纂する。
世阿弥は時代背景を留意しながら能作を行っていたと考えられる。論書「三道」の二条に=種とは、芸能の本説に、其をなす人體にして、舞歌の爲大用なることを知るべし=とある。『井筒』は在原業平と紀有常の娘の恋物語を「伊勢物語」から選び出し格調の高い素材を基にして優美な作品を生み出したのである。能『井筒』の種、本説は「伊勢物語」の二十三段であり、「待つ女」としてあらわされている。この「待つ女」の中に『井筒』の美はあると考える。死後も昔をなつかしみ偲ぶ「待つ女」は、心変わりした男を怨むのではなく純粋な男への愛情を世阿弥は優美に表現したのである。

(二)新境地の能

 世阿弥は従来の申楽を神の技と考え、神能を大切にした。この神能を更に歌舞性を重視した新境地の能、今いわれる夢幻能へと発展させた。この夢幻能の形は父観阿弥から世阿弥へ、世阿弥はそれを発展させ、娘むこの禅竹が継承した。世阿弥の新風の夢幻能は神能から軍体能、女体能と形体を充実させている。『井筒』は女体能であり、複式夢幻能の形であり、そして霊などの救済、懺悔というのではなく、情念を高揚させ、昇華したエロスの世界へと導くのである。=女性の能姿、風体を創りて書くべし。是、殊に舞歌の本風たり=と書き記している。この心得は能『井筒』の美として心ゆくまで表現されている。

(三)他の作品との比較

世阿弥の新風により作られた『井筒』の表現は、恋しい男の衣をまとい昔を偲ぶところに特徴がある。男の衣を着て興味を呼ぶ作品は『井筒』の他に、夫の後生を祈る「柏崎」、狂いから男をなつかしむ「松風」、杜若の精が歌舞の菩薩として男を同化する「杜若」などの作品がある。これらと比べ『井筒』の曲趣は、精神性を高め情念を美と化すのである。『井筒』と他の作品を比較する場合、『井筒』と同様「上花」とされる「忠度」がある。平家物語を本説とした作品であるが、修羅の中でも自作の和歌を思う純粋な心情を世阿弥は能作としている。世阿弥は現実を超えた純粋な能を「上花」としたと推察できる。

(四)美の根源

世阿弥は『井筒』を「直ぐなる能」としている。単純な筋書きの能であり、それだけに深い精神性が求められる。「花伝」は観阿弥の芸風をもとに編纂されているが、世阿弥独自の芸風を著作した能芸美論に「花鏡」がある。この芸論は精神性を主体としたものでその中に『井筒』の美の根源となると考えられる《万能綰一心事》《妙所之事》の二項目がある。能『井筒』において前者は「心の奥の心づかい、緊張感が外に匂い出て面白く」、後者からは「形なき姿、形なき所、これが妙体なり」という芸能の究極の境地を世阿弥は『井筒』の後場の舞に、美として表現する。
世阿弥は『井筒』を「上花」と最高位の能として自賛している。その中の『井筒』の女は、男を純粋に愛した心の奥の心づかいを静かな舞に托す。男と女の想いを重ね合わせ、その男女が結ばれ一体となる。そして男でもなく女でもない形なき姿の妙体が、女の想いを昇華させ男と女の一体感を超えた時、女の身、心に生まれる《崇高美》。この美が《能『井筒』の−男女一体による−美》なのである。