現代のアボリジナル・アートにおける観光芸術化と真正性について
 2002年度卒業論文要約
藤田幸代 
(29851074)

オーストラリア大陸の先住民アボリジニによって受け継がれてきたアボリジナル・アートは多様な伝統形式を継承しながら今日に至っている。だが、他の先住民族芸術と同様、植民地政策のもとで変化を余儀なくされ、現代においては観光芸術として消費されるモノとなっている。そして様々な問題を我々に投げかけているのである。
近年、各国の美術館におけるアボリジナル・アートへの注目、賞賛や、オーストラリアにおける商業シーンとオーストラリア・ナショナリズムの中でのその活発な採用においては、アボリジナル・アートに対する純粋な評価と同時にあくまでも西洋的価値観のもとでの認知、回収がみられ、真の理解を待たずに都合よく消化しようという一方向からのみの価値付け、そして視線が感じられる。
本論ではこのような現代のオーストラリア・アボリジナル・アートが抱える問題を、パプーニャムーブメント以降の動勢をふまえつつ、その観光芸術化、真正性をキーワードにアボリジナル・アートの現在を考察する。そして、先住民族芸術とその芸術を取り巻き、現代においては回収し尽くさんばかりに思われる西洋的価値観をもつ側との、双方からの歩み寄りの可能性を模索する。
 オーストラリアにおける植民がヨーロピアン達によって行われるまで、アボリジニ達は外界との接触を殆ど絶たれた状態で、超自然かつ創生時代に由来するドリーミングを中心に生活してきた。このドリーミングこそがアボリジナル・アートの実践理由であり、今日言うところの彼らの芸術は、原初においては宗教、儀礼的要素に溢れたものだったのである。このアボリジナル・アートに一大変革を起こしたのがパプーニャムーブメントだった。この契機を境にアボリジナル・アートはそれまでの部族内部にのみ向けた宗教的行為から鑑賞対象としての側面を得ると同時に、西洋的芸術観のもとに回収されていくことにもなった。またアボリジナル・アートを取り巻く周囲のまなざしも、もはや取るに足らないモノから新たなる造形芸術を観るそれへと変化したのだが、そこには真の理解は見られず、先住民族芸術をプリミティヴ・アートとして、経済だけでなく芸術においてさえも圧倒的力の集中する西洋側の都合のよい形で回収し、消化しようとし続ける姿勢が現代においてもなお続いているのである。まさにそれはクリフォードが述べるところの「芸術=文化システム」のあらわれに他ならず、このことは商業、オーストラリア・ナショナリズムにおいて顕著にみられるのである。
鑑賞対象という新たな側面はアボリジナル・アートを商業において、とりわけ観光シーンにおいての商品というカテゴリーをも与えた。観光客の目と心を楽しませるそうしたアボリジナル・アートの一面は、今日においても底辺にあるアボリジニの生活状況を、アート創出による金銭収入として助けている反面、現代におけるアボリジナル・アートに対する偏見をも助長している。そしてそこにみられるアボリジナル・アートへの周囲による価値付けは「真正性」という、西洋近代が第三世界を認知、回収する際に用いる言葉で行われている。さらにその真正性という価値付けは周囲からだけでなく、アボリジニ達自身によっても商業戦略のもとで意図的に用いられており、植民地政策のもとで目論まれたアボリジニ撲滅のための同化政策が、現代においてアボリジニ達自身の側から起こりかねない危機感を我々は覚えるのである。
だが、この真正性をもとに繰り広げられている双方からのアボリジナル・アート搾取においてでさえも、アボリジナル・アートの真の姿が消滅してしまったとは決して言えない。どの先住民族芸術も、日毎に加速するグローバリゼーションの中で進化を続けているのであり、文化の異種混交も確実に進んでいる。それはアボリジナル・アートにおいても然りである。そしてアボリジニ側による西洋文化への迎合かのようにみえる西洋的価値との接触もまた、アボリジナル・アート、そしてアボリジナル文化の新たな道を模索する一つの方法であり、また一つの交渉の場となっているのである。
西洋的芸術観によって遮られ、平行線をたどり続けるかのように見える、先住民族芸術、アボリジナル・アートと西洋的価値観との双方向からの真の理解は、決して不可能なことではない。すでに、アボリジナル側からは様々な形でその模索が行われている。社会的問題、アボリジニと西洋側との理解における齟齬等が、双方からの真の理解への道のりに大きく横たわってはいるが、アボリジナル・アートは双方にとっての交渉の場となる可能性を多分に秘めているのである。異文化がそこで交わり、あらたな交渉の場となるとき、我々は双方にとっての真のアボリジナル・アートの姿を見出すことになるだろう。