梅蒔絵手箱(室町時代・東京国立博物館)
 −作品と背景−
 2002年度卒業論文要約
山田健之 
(29851127)

室町時代の蒔絵作品、梅蒔絵手箱(東京国立博物館蔵)をとりあげ、その意匠や特色に当時の美意識や生活文化のどのような要素が影響を及ぼしたか考える。
蓋表の意匠は梅の花弁、梅樹、満月、葦手で構成され、梅の花弁と蕾が右下方におかれ、左下から右上の月に向かうように梅樹が対角線上に伸びる。葦手は『古今和歌集』の凡河内躬恒の和歌を示す「香 尋」の文字を配している。蓋裏は梅樹、花弁に石組と波状の表現が加えられ、左に大きい空間をとる叙情的な構図となっている。葦手は『和漢朗詠集』白楽天の詩を示す「白 片 浮」の文字を配している。蒔絵の技法は淡梨地に金高蒔絵、金銀の切金、銀金貝、金研出蒔絵である。
構図は蓋表、蓋裏とも辺角の構図を採用している。宋元画の影響を指摘できるかもしれない。また室町時代前期の熊野速玉神社古神宝類や鎌倉時代の梅蒔絵手箱などの図様に近いものが感じられる。技法的にもこれらの作品との共通性は多く、鎌倉時代と室町時代との特色が混じっているように思われる。構図、文様の取扱いなど唐物一辺倒とはいえず、むしろ和様で洗練されている。
主たるモチーフの梅は原産地が中国で、梅と月の組み合わせも中国起源の文様とされる。梅は日本において古来より和歌に多く詠われ、中世以降庭園にも多く植えられるようになる。また室町時代の蒔絵で梅が表現される作品は、主だった作品では平安・鎌倉時代に比し多い。さらに時代は下っても永く日本の美意識のなかで取り上げられてきた。叙景的に散らした梅花、蕾などには中国からの影響はそれほど感じられない。
この図様には庭の風情に共通するものを感じる。日本の庭園は自然をベースにこの図様のような曲線を中心とした池泉、石組などがみられる。この梅蒔絵手箱の蓋裏図様は和風であるが写実味はなく、枯山水の庭園を思わせる。室町時代は庭園の意匠と技術が向上し、禅寺独特の枯山水庭園が作庭されるようにになり、日本庭園史の全盛時代に入った。蒔絵もまた技法的にでそろった鎌倉時代から発展し、室町時代でほぼ完成の段階に入った。
日本庭園は自然の条件に加え宗教、文学、茶など生活文化とも関連を持つ。中世の武家の日常生活には躾や式法があり、そのなかには庭園鑑賞の礼儀や作法も含まれ、庭園は日常生活のなかで大きな美的役割を占めていた。寝殿造りは部屋からパノラマ状の景観が望まれる構造であるが、書院造りでは部屋仕切りができそれぞれの視点で異にした造園を考え、さらに移動しながら見た時に、全体としても自然なまとまりを求めるようになる。室町時代の手箱類には画面ごとに独立性の強い文様構成がみられ、鎌倉時代以前の手箱の意匠と異なる特徴がある。この梅蒔絵手箱は蓋表の梅に、蓋裏では石組と砂洲とみられ意匠が加わって、場所を移し景色の変化をみるような感じがあり、手箱の図様は庭がイメージされるように思われる。
室町時代には上層階級に文学好尚があり葦手意匠は大流行する。流行の背景にはその他に鎌倉時代比べ文書の質量両面での状況の変化、つまり文字の使用の多様化や、鋳物師や木地師のような手工業者、商人など使用者層の広がりがあるとみられる。蒔絵の製作はこの時代には分業になっていたが、良い葦手作品にはいろいろの段階で係わる人々の間に、文字に関してある水準以上のものが共有されている必要があろう。
室町時代は明との交易で堆朱、剔紅、屈輪、存星など彫漆類の輸入は夥しい量にのぼった。しかし日本独自の葦手が流行する一方、彫漆は蒔絵を中心とした伝統的な漆工芸には大きな変化をもたらすには至っていない。この理由のひとつには唐物への対抗意識を見る考えがあるが、その他に蒔絵と彫漆は共通する工程はあるものの、技法的に懸隔があり性格の異なることが考えられる。意匠についても堆朱は唐代に始まり長く中国で愛され続けてきたが、日本では当初の唐物の忠実な写しが、室町末期になると意匠に和風化がみられた。日本人の感性に合わなかったと考えられよう。蒔絵技術ではこの時代には肉合研出蒔絵などが登場するなど、日本独自の技術が発展しほぼ完成する。また五十嵐や幸阿弥など名工が登場し代々技を発揮し始め、さらに明は日本の蒔絵の技術を学んだと考えられる記録が残っており、明の及ばない技術の存在があったことを示している。このような状況では唐物から大きな影響は及ばないと考えられる。
室町時代は唐物崇拝の風潮が覆い尽くした感じといわれる。しかし芸術意識については、日本の美意識による選択、造形も行われていた。特に蒔絵は独自の伝統や技術的に日本優位という条件もありその傾向は強い。とりあげてきた梅蒔絵手箱は中国の影響は充分に和風化され、書院、庭園、座敷飾りなどのもつ感覚的、構造的要素や時代の価値観、美意識などが調和をもって反映された作品と思われる。