伊藤若冲における「写生画」の意味
 −作品と背景−
 2002年度卒業論文要約
木下輝美 
(29851137)

はじめに

伊藤若冲は一八世紀京都画壇で活躍した画家である。華やかな色づかいや漸新な構図、そして対象の「本質」まで迫ろうとする若冲の絵画姿勢に、現代人の多くが深い共感を示している。一体なぜ若冲はそのような類まれな作品を江戸時代に描いたのだろう。若冲が創出した「写生」とは何を意味するのだろうか。

第一章 若冲画歴

若冲は『平安人物志』に名が載るほどの有名画人であった。若冲がどう生き、どんな絵を描いていたかは、大典顕尚が記録したものが残り、それが重要な情報源となる。若冲の画業を一覧すれば、その代表的な作品の多くが寺社への寄進という恵まれたかたちより生じていることに気づかされる。この章では、それらの作品が若冲のどういう時期に描かれたものかを最低限に確認して若冲の画業人生を追っていく。伊藤若冲についての理解や、彼が表出した「写生画」への意味についての考察には、代表作とされる『動植綵絵』三十幅をとりあげる。その作品には彼独自の装飾要素や細密描写、そして漸新な構図などが最も多く集積されていると思われるからである。

第二章 若冲周辺

大典顕尚という禅僧は、若冲の生涯に大きな影響を与えた人物であるが、大典を通じて知り合った、売茶翁、伯(※シュン)も若冲にとっては憧れの人であった。相国寺に出入りすることによって恵まれた人脈を得ていた若冲は、俗世から離れていたにもかかわらず、さまざまな情報を聞き、まためずらしいものも目にすることができたようである。俗世から解放されて作画三昧の生涯を送れたのも、実家の青物問屋からの収入があったからであり、在野の画家としては珍しいほど幸運な存在であった。そして若冲は熱心な仏教信者であった。若冲作品には、その反映とみられるものがいくつか指摘される。若冲が傾倒していた禅の世界では、「奇」なるものについての愛好というものが存在する。当時の芸術家にとってもその精神は大事であった様である。

※シュン、ジュン:王旬 (ヘン:王  ツクリ:旬)

第三章 祇園南海にみる「奇」の思想と若冲

また禅に加えて、この時代の文人思想を底流と捉えることで、若冲理解の奥行きを深めることができないだろうか。「奇」を容認するあるいは愛好する社会を想定することで、若冲は同時期の人々に受け入れられていたということが理解できる。だが若冲は決して自覚的に「奇」や異端を目指したわけではないのではないか?。結果的には彼は彼自身に正直に作画することで「奇」を生み出し、しかも同時期の「奇」を解する京都の社会に受入れられたといえるのではないだろうか。

第四章 若冲と応挙の写生

では、若冲が生み出したその奇なる写生画とはどのようなものかを見ていくために、写生の祖と呼ばれる丸山応挙の作品と比較し、その差異を明らかにしていく。結局、若冲はありきたりの対象を描きながら、固執と執念つまり、“これでもか”という位の異常な感覚をとおして“神秘的なもの”を創造した。そして対象のリアリティが深まるほど通常の美の規範から、また応挙の写生画とも遠く離れたものになっていったといえるだろう。思いつめたように内部に肉薄していく若冲のあり方に、物象の真実までも明らかにしようとする彼の求道的姿勢を見るのである。
若冲の偉業のひとつに、当時の画家が関心を示していた絹と膠絵の具の作る着色の描写に、自らが真剣に取り組み独特のマチエールを創り出したことが挙げられる。それにしても、若冲自身が内なる視野で育てた超現実の映像を、極密濃彩の着色画法にまで行きつき画面を定着させた『動植採絵』三十幅は、前代未聞の着色花鳥画である。

おわりに

若冲は、江戸時代も明治以降も注目されていた。ただし大衆一般に広く知られるようになったきっかけは、二〇〇〇年に京都国立博物館で開かれた「若冲展」であった。以来さまざまな分野の人たちが若冲に関心を寄せている。なぜ今若冲ブームなのかについての明解な答えはみつからない。だが若冲が創出したシュールな写生は、快、不快を越えて、現代人の心に迫ってくるのは確かなようである。