現在、都市空間の中に多数認められる芸術的要素(アーティストがつくる、アーティストが提案する等)を含んだモノ(obje)、これらの設置を今に繋がる形で時系列的に考察するとき、それは1950年代頃にまで遡ることができる。ただ、その間、確かに表面上の変化(表現の多様化、目的の多義化等)は感じられるのであるが、「都市空間と芸術との関係」という観点からすると、50年間変化らしい変化はなかったと評せざるを得ない。なぜなら、それらはあくまで「都市空間とモノ」の関係に帰結するものであり、設置主体も依然として行政もしくは建築家であるからである。 思うに、芸術家にとって最もその創造性を自由に表現できる場所は、近代以降「美術館」あるいは「画廊」等であったはずである。なぜなら、そこを訪れる人々は必ず「芸術作品」を観に来るのであり、その空間は「芸術作品」が置かれるために整えられた特別な場所との認識が人々の中にはあるからである。それに対して都市空間は芸術に関心のない人々が行き交い、そこでのルールは芸術に決して優しくはない。では、何故に芸術は美術館を出た(出ようとした)のだろうか。私はその理由を新たな可能性の模索に求める。つまり、失われた社会性をもう一度取り戻し、より複雑な外部空間としての「人々の日常」にかかわることを通じて作品それ自体の持つ意味に新たな可能性を見出す、そのために無地の「ホワイト・キューブ」である美術館から脱出し、人間の五感に対して開かれた「場所」(すなわち都市空間)での果敢な創作を試みるようになったのではないか、そう考えるのである。そしてこの考えに立つ限り、「芸術が美術館を出る意義」は、「芸術が都市空間とそこにある日常とにかかわること」に求められるべきこととなる。つまり、美術館を出た芸術は、出たその「場」とのかかわりにおいて評価され、当然、「そこ」に、「それ」が、「今」、「そのようにして」あるという必然性が求められるのである。 現在「都市空間にある芸術」は、当初の目的を果たした、あるいは、果たしつつあると評価できるだろうか。芸術が都市空間へと出た理由を考え、実際に都市空間へと目を投じてみると、そこにある「芸術」は、とても本来の自立性を保持しているとは言い難い。それらは、そこにあることの必然性を感じさせず、取って付けた観を否めないモノになっており、一般的には「パブリックアート」と一括りに呼ばれてはいるものの、実際には「アート」というより建築物に付属する「装飾品」でしかないのである。そもそも新しく作られる空間に新しく設置するというのでは、以後何らかのハプニングが生じるはずもない。したがって、このような状況からは新たな可能性を期待することは難しいだろう。ましてや、ほぼ全てのモノに半永久的な設置が前提とされるなど論外である。なぜなら、芸術とは常に現状を超えていこうとする活動にこそ意義が認められるものなのであり、初めから半永久的な設置を前提とするというようなシステムにはそぐわないからである。いずれにしても、現在「都市空間にある芸術」をもって「芸術が美術館を出た」と評価することは困難である。 では、本来の目的に沿った仕方で、今後都市空間の中に芸術がその場所を確保するためにはどうすれば良いのだろうか。まず、少なくとも必要なことは、思考の硬直化を生じさせる半永久的な設置という前提を排除することにより、これまでの「都市空間にある芸術」イコール「都市空間にある彫刻」という固定概念を捨てることである。そして、芸術が都市空間とそこにある人々の日常にかかわるということを、作品を所与として人々が行動することと捉えるのではなく、むしろ、芸術家と住民が協働して都市空間を活用し「文化」「芸術」作り出す、そういった試みとして捉えることが必要である。そうするならば、どうしても他者の協力が必要であるという状況が人々との関係を生み、その関係が連鎖的な広がりをみせ、より効果的に都市空間に芸術がかかわることを可能にするはずである。 住民に反対されないような作品を作ることが重要なのではない。なぜなら、万人に受け入れられる芸術作品を作り出すことなど、そもそも不可能だからである。また、反対されたときにその作品の「真の意義」を住民に説明することが大切なのでもない。なぜならそのような事後の一方的な説得は、より都市の芸術に対する許容性を狭め、住民の態度を硬化させかねないからである。もっと双方向的なコミュニケーションとしてのかかわりを基礎に「かかわりのあり方」を考えるべきである。そこから生ずるダイアローグにこそ、都市空間に芸術がかかわる意義を見出すべきである。それで今後は、芸術の成果あるいは都市開発の成果等、分野ごとの成果を目的とする20世紀的な考え方とは決別し、都市空間と芸術の関係を、住民と都市空間とを活性化するために芸術が、芸術家が何ができるかという視点から考えることが重要となるだろう。そうしなければ、わざわざ芸術が美術館を出て都市空間にかかわる意味はないし、今後都市空間の中に芸術がその場所を確保すること自体難しくなるはずである。
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