序) 私が生まれる前から須磨の実家の洋間にかかっていたサーカスの絵。この絵が林重義という洋画家の作品と知ったのは、高校生の時だった。林重義(1896−1944)は『独立美術協会』の前身『一九三〇年協会』に参加して、享年47歳で死んだ誠実な画風の人だった。日本洋画の円熟期、神戸画壇の中心にいた大きな存在だったが、戦中の混乱の中、他界したため、今日その名前はほとんど知られていない。林はその人生、特に後半生に何度も舞妓を描いた。なぜ林は、舞妓にこだわったのか? 1930年代の写実は、欧州のリアリズムの追体験とその日本的変容を体験し、新たな方向を模索した「動」の時代だった。ここに舞妓の手掛かりが隠されているようだ。本稿は《舞妓》を通じ林の画業を見直すものである。
氈D舞妓とピエロ) 《舞妓》(黒)(1934)は、黒い着物をまとった舞妓が正面斜め右に向いて座る、林の代表作だ。着物の模様やかんざしなどが極めて細かく描かれており、鬢の生え際に白の色を塗り残し、それをおしろいのわずかな塗り残しに見立てたり、下唇のみに紅をのせたりといった細かな表現と相まって、色の面のダイナミックさとの対照をなす。林は「舞妓」という純日本風の画題を繰り返し描くが、その作風は年を経るに従って薄塗りで平面的、装飾的になっていく。「舞妓」へ行き着いた理由を探るヒントとしてピエロがある。ピエロは舞妓と共に生涯こだわり、晩年、林は―30年代の洋画家と同様に―日本的なモティーフを求めたが、ピエロだけは後生の20年近く描いた。《舞妓》と《ピエロ》の共通点は「心の底でたぎる人間の本性の魅力」だ。なぜ、林は「舞妓」に行き着いたのか。
.林の写実―描き方) 林は鹿子木孟郎に師事、仏から帰国した30年に『独立美術協会』を結成。「日本的」を意識した「純写実主義」と標榜した画風に挑戦した。日本画の特色の型を離れた所で、筆触の操作と色の解釈の切りこみを使い、濃艶、逸楽的な世界を作った。 同時代の洋画家と比較すると、林武や児島善三郎らが「堅固な構図」で「豊麗な色彩」へと向かい、萬鉄五郎は「キュビスム的構成」を辿り構図が単純化した。林の場合は構図や型に大きな変化が見られない。林は37年、「技巧」とシュールレアリスムの盛行に反発し『独立』を脱退、若き日に学んだ日本画の技巧に回帰した。林が舞妓を描いた時、友人に「本当の舞妓に見えるかどうかだけ言ってください」と批評を求めている。この発言から、林は外観が酷似していることよりも、人間の醸し出す雰囲気をはじめ精神的なものを写し取ろうとする「写実」を目指したと思われる。では林が目指した「写実」とは何か。
。.林の写実―モティーフ) 1930年代、自己の分裂は、生の危機でもあった。林も父、妻と次男を相次いで亡くし、自身も帰国した30代からアルコール中毒、そこに関東大震災、戦争一色と社会的な危機が重なった。そんな時代だからこそ、生への希求が高まったのだ。 林は5歳年上の岸田劉生を私淑していたが、実際劉生を林が訪ねて行った時、林の自画像は賞賛を受けた。異端へと舵をとる劉生の行きかたや「新興芸術」は、今でいうアヴァンギャルド、造形の枠組みを乗り越え、生活と芸術との境をも踏み越えようとした。劉生も「新興芸術」も林も、東洋的、日本的なモティーフを志向した。例えば、劉生は晩年「浮世絵」から、異端へ飛び出した。林も「生活と密接な関係を持つものでなくてはならない」と、身の周りの静物や風景などを描いた。そして、「写実家・劉生」と「新興芸術」の立場とは一見相反するとみえながら、その実、異端性への衝迫において相通ずるのだった。 また、1930年代「新興芸術」―プロレタリア・レアリスム―と林の絵が決定的に違っていた点はモティーフに批判的な意味を与えなかった点だ。例えば、パリのカフェで2人の男がいるときに、モティーフに選ぶのは、階級に関係なく、親しい方だ。そして林が、劉生とも「新興芸術」とも明確に異なる点は、最後まで「運動」や向かう方向すら持たず「主義」を排した写実―静の美―だった。林が唯一、信じたものは自分の「経験」のみだった。 林は、日本の洋画家があまりにも外国の作家の影響から自立できずに制作を続けていることに疑問を抱いていたが、この制作姿勢が、林を日本的なモティーフへと向かわせた。
「. 結び) 林は主義に対する葛藤、混沌とした画壇の中で、また地元神戸の月曜会で、肥大化する自分の位置づけと、弱さの分裂が「舞妓」へと向かわせた。《舞妓》は林自身の自画像だったのかもしれない。「新しい精神に基づく写真主義」と自らの画業をいい伝えた、林が戦後も生き伸びたなら、日本の洋画壇において異質の存在となっていたに違いない。
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