浮世絵に見る鼈甲の髪飾り
 朝鮮鼈甲と擬甲を視野にいれて
伊与田澄 
(29951095)

 浮世絵に描かれた江戸期の髪飾りは、素材名「鼈甲」として単純にひとくくりに語られることが多い。二百年にわたって続いた結髪と鼈甲の流行は特筆すべきことだと言える。

 それでは、鼈甲とはいかなる物だろう。一般的に海亀の一種・玳瑁(タイマイ)のことをいう。玳瑁は正倉院・御物の「玳瑁螺鈿八角箱」に於いてその模様を見ることができる。南京甲と呼ばれたタイマイは東シナ海・唐船を経由して輸入されていた。黒からこげ茶の地に黄色い斑模様の甲羅が多い。異人甲はキューバ甲とも言われカリブ海域で捕れる赤みをおびたタイマイだ。いずれも輸入直後の甲羅は表面に艶がなくて汚れている。鼈甲職人に研磨されて初めて亀本来の個別な模様が現れてくる。

 この研究は私の素朴な疑問から始まった。浮世絵の鼈甲の髪飾りはなぜ黄色いのだろう。舶来品にあこがれた浮世絵の女性たちがいかにして、その需要をまかなうことができたのか、文献資料、絵画資料、から推察してみたいと考えた。

 第一章では髪飾りの変化を130枚余の浮世絵資料から分類して年表を作った。表1・では櫛の鼈甲模様の時期(17世紀後半〜18世紀前半)と、櫛が黄色に変化する時期(18世紀後半)が、大きな流れとして捉えることができた。年表2・では、笄もまた黄色く変化する時期(18世紀後半)かあらわれた。年表3・では髪飾りの数量について調べた。鼈甲模様の櫛を一枚挿していた遊女たちが18世紀後半になると10本以上の髪飾りをつけるようになる。19世紀の前半には、その髪飾りの厚みが増していく。そして20本以上の豪華絢爛な花魁の姿が登場する。鼈甲の髪飾りに注目しながら、三枚の年表を分析すると、四つの大きな流れが見えてきた。浮世絵に初めて櫛が登場した菱川師宣〔生年不詳〜元禄7(〜1694)活躍期 寛文〜元禄〕の《見返り美人》、この絵の中の櫛には鼈甲模様が描かれていないので素材は不明である。鼈甲模様の櫛があらわれる初期としては鳥居清倍〔生没年不詳 活躍期・元禄末〜享保初期(18世紀初)〕、懐月堂安度〔生没年不詳 活躍期・元禄〜宝永・正徳(18世紀初)〕、等がふくよかな元禄美人を描いている。次に移行期の髪飾りとして重要なのは、笄と櫛のセットの髪飾りがあらわれる。このころの笄は髪の毛を巻き上げるカーラーとしての役割をはたし、完全に髷を頭上に立ち上げた。奥村政信〔貞享3〜明和1(1686-1764)活躍期元禄・宝暦〕、西村重長、石川豊信、等の描く髪飾りが特色だ。髪飾りの中期としては、鳥居清長〔宝暦2〜文化12(1752-1815)活躍期天明(1781-89)〕、喜多川歌麿〔宝暦3〜文化3(1753-1806)〕に代表される、鼈甲の黄色い細い髪飾りを10本くらいつけるのが主流になる。洗練された浮世絵美人が登場する時期だ。鼈甲髪飾りの後期としては、歌川国貞〔天明6〜元治1(1786-1864)〕、渓斎英泉〔寛政2〜嘉永1(1790-1848)〕らが描く櫛、笄、簪ともに厚みが増していく時代だ。また意図的なわざとらしい鼈甲模様があらわれる。花魁は20本以上の髪飾りをつけて競い合うようになる。次の章では、なぜ大量の黄色い鼈甲の供給が可能だったのか、また鼈甲の貼り合わせ技術の進歩についても考察した。

 第二章では、いつごろからタイマイを合わせて接ぐことが可能だったか技術的な問題に触れた。享保になると折れた鼈甲を接ぐことができるようになる。埋め斑により、自由に黒い斑をいれる技術は元文になると玳瑁を切り抜き寄せ継ぐ鋏拐(カナバシカセ)として技術が伝わる。天明になって初めて爪甲が輸入され髪飾りの厚みを著しく増すことができるようになった。
 明暦までは大名の奥方しか身に付けることができなかった鼈甲であるが、正徳の頃には、遊女にも流行するようになった。寛保にはいると水牛の髪飾りも増えてくる。安永には、朝鮮鼈甲が流行したという。水牛や馬の爪を血抜きした素材を土台に表面にタイマイの腹甲の薄いところを貼る。これは見分けが付かないほど精巧に作られていたという。水牛の角の髪飾りに黒い斑点を描き、また貧しい女性達の間にも鼈甲文化は浸透していった。竹や木の笄に鼈甲模様の黒い斑点を墨で描いていた。嘉永になると卵から卵甲という擬甲を作っていた。これらの文献資料の記述から、江戸期に大量に供給された鼈甲・水牛の角、朝鮮鼈甲の解明を試みた。文献記述にある朝鮮鼈甲と思われる笄を切断して、内部の牛の爪の素材が三重構造になっている写真を明らかにした。

 終章では、江戸時代に度々出された、倹約令、髪切り制限令の中でもめげずにおしゃれを追及する歌麿の《くしを持つ女》を分析する。透き通るガラスのような櫛は鼈甲ではなくて水牛の角だろう。四足の動物を忌み嫌う女性の為に鼈甲という架空の亀を創造したと考える。