マーク・ロスコ:経験する絵画
秋元通夫 
(29951120)

 マーク・ロスコ(1903?1970)の絵画を前にすると、絵画に包み込まれるような経験をする。その経験は後になって感覚として再び浮かび上がってくるような、人を虜にしてしまう力を保有している。彼の絵画には秘密が隠されていると思われるが、それはどのようなものなのだろうか。

 ロスコ様式は、巨大なサイズのカンヴァスを使用して、左右対称の構図の中に浮かんだ色彩と矩形のバリエーションである。しかし、単純に見える矩形と背景には色の差がつけられており、それは彩度による対比か、あるいは明度による対比からなっている。絵画に包み込まれるような感覚は、表面上の色の下に補色が隠れているために、見えないものを見ているというパラドックスが意識しないところに影響を与え、鑑賞者と絵画の関係がより深いところで結びつくためである。ロスコ様式は一見、単純な構図に見えながら、その構造には複雑な作家の思考が隠されている。

 1947年のロスコの作品は、様々な形態がカンヴァスに浮かぶ混沌とした状態であった。ここから彼のスタイルに到達するためには、色彩と構造、大きな矩形と細部の表現といった互いに相反するものの整頓が必要であった。そして1950年には、いわゆるロスコスタイルに到達する。障害が取り除かれた絵画は、最後に鑑賞者が前に立つことによって完成する。ロスコが彼の絵画を見る正しい位置として、2フィート離れるように指示したり、作品の設置に関して詳細な指示を残していることから、鑑賞者に大きさの影響を正しく与えることが重要であったことをうかがわせる。

 いわゆる抽象表現主義と呼ばれたの作家の中で、巨大な色面を鑑賞者に正しく見せる方法を積極的に取り入れた作家がバーネット・ニューマンである。彼は自身の絵画について「わたしの絵画の前に立ったとき、自分自身のスケールを実感するということだった。つまり、わたしの絵の前の観客は、彼(観客)がどこにいるのかを知るのである。」と発言している。ニューマンにとって重要なことは、鑑賞者に場所の感覚を与えることであり、そのために巨大なサイズのカンヴァスと色面を走るジップは欠かせない仕掛けであった。ニューマンに比べてロスコが異なっているのは、「人間の根底にある感情を表現する」ドラマの絵画を目指したことであり、そのために身体をすっぽりと包み込む人間のサイズのカンヴァスを必要としたことである。

 クレメント・グリーンバーグは、ロスコらの絵画を評価したが、それは、画面に絵具の混乱や濁りのない、色彩と開放性を獲得していたからである。グリーンバーグが主張した純粋絵画とは、絶対的に平面性を保った絵画のことなのだが、彼の言う平面性とは、モンドリアンの抽象絵画に見られるような絵画のことで、これらの「視覚的なイリュージョン」によって生じる平面性は認めた。グリーンバーグは芸術の質が低下してしまうことから救い出すためには自己-批判が必要であり、そのためにはリアリズムの絵画が作り出している「空間のイリュージョン」の排除を必要とした。しかし、彼はその主張によって、視覚的なイリュージョンを肯定したことになる。彼が評価したロスコらの絵画には、形式が絵画の本質的なものに還元されているとしてもフォーマリストとしてのグリーンバーグは、視覚的なイリュージョンの存在こそが鑑賞者に内容を創り出すものとして、形式の中に内容のすべてが含まれる状態を期待したのだと思える。

 ロスコ絵画の体験には、恐怖と喜びという相反した特性がある。ロスコは、今までずっとギリシャ神殿を描いてきたと語っており、ロスコ自身のギリシャ悲劇への関心やニーチェの影響を考慮すれば、ロスコが絵画の内容としてサブライムの概念を応用

したと推察することも可能である。しかし、サブライムはカントが「解明不能の概念」と定義したように、わたしたちがある対象を目の前にしたときに、そのあまりの巨大さのゆえに、わたしたちの理解を超えて限界を超えようとするときにそう呼ぶとすれば、ロスコ絵画での経験の内容をサブライムと結びつけることは可能に思えてくる。ロスコのドラマとしての絵画には人間感情の本質である7つの材料が潜んでいる。「何よりも明確な死の概念と人間の死すべき運命への暗示、官能性、緊張と心の葛藤もしくは抑圧された欲望、皮肉、機知(ウイット)と遊び、はかなさと偶然性、希望」これらは、人生そのものであり「いま、ここで」わたしは、「それはあなたが支配できるようなものではない」あまりにも巨大なものに包まれようとしている経験をするのである。その時わたしは、わたしの人生を肯定し、受け入れることで、初めてサブライムを感じることが可能になるのではないだろうか。