平安初期の神泉苑について
大石透 
(29951148)

 現在、京都に二条城の南に神泉苑という寺院がある。京都の東西路の中の御池通は、その神泉苑の南側にあり、御池という呼称は神泉苑の池に由来している。平成二年(1990年)から、京都市営地下鉄東西線に伴う発掘調査で、緑釉瓦や池の汀などの神泉苑の遺跡が発見された。緑釉瓦は平安京の主要建物、天皇などに関連した建物に用いられてきた瓦である。

 今、見る限りでは想像もしえないが、神泉苑は平安京造営の時、その大内裏の南東にあった苑池である。その当時の大きさは、東は大営大路、西は壬生大路、北は二条大路、南は三条大路に至る。南北四町、東西二町で計八町という広大なものであった。その池は、京都盆地が湖盆であった事も示していた。

 神泉苑の池には中島があり、苑内には緑釉瓦が使われていた乾臨閣、左・右閣、釣台、滝殿などの建物があった。神泉苑は天皇、貴族の遊宴の場であり、そこでは詩宴、相撲、競馬、遊猟までも行われる、非常に幅広い用途をもった禁苑であった。

 桓武天皇から神泉苑への行幸ははじまっているが、最もこの神泉苑を愛好したのが嵯峨天皇である。行幸の内容では詩宴が数多く行われ、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』という漢詩集に、その時の詩が多く収められているのである。

 そして、神泉苑という苑池が興味深く考えられるのが、天皇の禁苑という機能をもちながらも、やがて遊宴の場から祈雨、請雨の修法の場へと変化していった事である。また、禁苑の池水が人々に開放されたり、御霊会が開催され門は開けられ、禁苑に人々が自由に出入りし、見ることができたのである。

 神泉苑での祈雨、請雨の修法の場を考える時に、登場するのが空海である。真言宗の開祖であり、嵯峨天皇との交流を深め、その鎮護国家の考えを実現すべく、行動的な僧侶であった。

 そこで平安初期の神泉苑を考えるにあたって、この時代の重要な存在である嵯峨天皇と空海、それぞれの神泉苑への関わりと共に、なぜ神泉苑が特異な場として存在し、推移していったのかを考察してみたいのである。

 詩宴が行われる時の神泉苑は、宮廷の文化的サロンとでもいうようなものであろう。嵯峨天皇と空海が神泉苑での同じ詩宴の場にいたという事があったのか定かではないが、それぞれが神泉苑の詩を残している。苑内での自然の様子が好まれそれらが表現されている。特に嵯峨天皇の春の季節での詩は、春の情景や女性の様子など、神泉苑での宴の華やかさや、楽しさが伝わってくるものである。空海の『性霊集』に収められている詩では、秋の情景と共に、静かな苑の自然と生息している生物との姿を天皇と人々との平穏な関係にもたとえている。空海は神泉苑を天皇の遊宴の場としてだけでは捉えていなかったのではないだろうか。しかし、嵯峨朝の時の神泉苑は天皇のものであり、王権を示す場としてあったのである。

 その神泉苑が祈雨、請雨の修法の場への変化していく。空海の神泉苑での請雨は淳和天皇になった天長年に入って行われたとされている。ただ、これは正史には残されておらず、後の弟子たちによって以降の方が頻繁に修法を行ったとなっている。しかし、弟子達の請雨以前の時に、神泉苑と験者との関連があったところをみると、神泉苑が霊験のある地であるという認識は、何かきっかけとなる出来事、思想があったからではないだろうか。そこに湧水である池の水というものが重要となってくる。やはり、空海の祈雨があったのではとも考えれられるし、貴族や人々の神泉苑に対する考え方も天皇の遊宴の場というだけのものではないかもしれないからである。

 神泉苑に、祈雨、請雨の修法の場として機能が加わっていくには、天皇に対峙し、調和できる空海の存在、名というものが重要であったのであろう。災害への対処という時、遊宴の場から宗教的な場へと神泉苑が推移していく時、そこには王権の天皇の徳の部分が神泉苑に求められているのである。

 平安初期の神泉苑において、嵯峨天皇と空海は国家の中でそれぞれの役割に応じた、それぞれの関わり方をしている。 

 神泉苑は造営された当初から持ってた特異な場としての機能を発揮すると共に、天皇の王権の象徴の一つであり、天皇のものであった遊宴の場から、天皇の徳を必要とする人々と共用する場へと推移していった。