近代、なぜ月輪寺は衰退したのか?
板崎敦子 
(30051449)

京都市の最高峰、愛宕山の山頂には、愛宕神社が祀られている。全国に千五百社余りある愛宕社の総本社である。一方、その中腹にある月輪寺を知る人は非常に少ない。

今日の刊行物によると、月輪寺は大宝4(704)年、泰澄大師が役小角をともなって開山したことに始まる。さらに、空也上人や法然上人ゆかりの地でもある。その法然が念仏専修し、入山した折、九条関白兼実はその徳に帰し、後に法然・親鸞の配流時には、「末の世の形見となし給う」として月輪寺にて各自が木像を刻んだとされ、三祖師の尊像《伝九条兼実坐像》、《法然上人像》、《親鸞上人像》が今日に伝えられている。寺宝にはこれら三祖師像の他に、坂上田村麻呂作と伝えられる《木造千手観音立像》、源信作と伝えられる《木造阿弥陀如来坐像》、《空也上人立像》、その他、《伝善哉立像・伝竜王立像》、《十一面観音立像》、《聖観音立像》などがある。

月輪寺は平安時代以降、山岳信仰によって発展してきた。山伏の動向に支えられてきた月輪寺は、江戸時代中期には法然上人二十五霊場の一つとして巡礼者の参詣を受けてきた。だが、今日ではその運営の危機に迫るまでに陥ってしまったのである。なぜ、近代になって荒廃したのか、探ってみた。

現在の住職・横田智照庵主に問うと、明治期の無住期に大きな原因があるという。月輪寺には『月輪寺縁起』の他、ほとんど文書類がないため、京都府総合資料館、叡山文庫、国会図書館の文書を検索した。その結果、明治維新以降、現住職までの間に10人の住職が居たこと、無住であることが明確な年が判明した。月輪寺の荒廃原因のひとつに、数回にわたる無住状態が招いたことではないか、と考えられるのである。

また、明治新政府の政策による影響も考えられる。第一に、神仏分離令である。この政策によって、それまで神仏習合の形で愛宕大権現(現・愛宕神社)とともに隆盛していたのだが、神仏分離令によって全く切り離され、寺の収入形態や檀信徒の形態も一変してしまったのである。

第二に、上地令があげられる。上地令とは、大政奉還後もなお残った、旧体制の土地、寺社領を明治新政府に上地する法令である。これにより、月輪寺だけではなく、全国の寺社は大打撃を受けることとなった。明治28年、その窮状を国会に訴えた者もいたが、折しも日清戦争下の財政難である上に、上地させた土地の公共利用推進の波に押され、その法案は否決される。皮肉なことに、その数年後には文化財保護の政策が打ち出されているのである。ちょうど、文化財への眼差しが出始めた時代であったのである。

月輪寺の寺宝のうち8?は、大正6年に重要文化財の指定を受けている。この重要文化財の指定は、今日に至る複雑な問題を呈した。開山以来、千年以上もの間、信仰によって支えられてきた寺に文化財としてへの眼差しが加わったのである。この、二重のものさしで寺宝が見られることで、月輪寺への価値観や仏像の取り扱い方に変化が生じ、伝承の寺史と仏像の語るものとが合致しなくなった。伝承されてきた寺史が崩れる原因となったのである。

近代における月輪寺の衰退原因は、決して月輪寺に限ったものではない。このようなことが原因して廃寺となり、歴史に埋もれてしまった寺院も少なくないであろう。そして、近代国家行政が行い、現代にも引き継がれている文化財行政の弱点がここにひとつ、表されたのではないだろうか。近代から始まった文化財への眼差しが、特に、弱小寺院にとってはその存亡の危機に結びつくものであるということをここに垣間見ることができたのではないか、と考える。

以上