メセナという言葉が、日本で使われだしたのは今日とで開催された1988年11月の朝日新聞社とフランス文化省の第3回日仏文化サミットがきっかけであった。当時、日本はバブル経済全盛期を迎え、あらゆるところに金銭が異常に投資されていた。芸術作品もその例外ではなく、短期間にアメリカに次ぐ芸術作品取引国になっていた。スイスのある画廊では「印象派」と名の付く作品は、全く無名であっても日本から注文に応じて倉庫が空になったほどである。ある個人コレクターは、「私が死ぬ時にルノワールの作品もいっしょに燃やしてもらう。」と発言し、世界から大きな顰蹙をかった。しかし、そのようなバブル経済はいともたやすく崩壊する。1990年代という10年は村上龍の小説『失われた10年』と化するのである。メセナも1990年2月に企業メセナ協議会が発足し、4月には社団法人の認可がおりたものの、1995年までその予算は規模は低下する一方であった。1991年以降、全国の企業倒産件数は毎年10,000件を超え、とりわけ、1997年以降は1999年の1月と2月を除けば、月間1,000件を超えている。しかし阪神大震災を契機にボランティアが社会に根付きだすとその息を吹き返すがごとく、今日の先行きの見えない長期不況下であっても脈々とその使命をはたしているのである。それでは、そのようなメセナがパトロンと明白に異なるという定義があてはまるのであろうか?その為には、パトロンとは何かを定義しなければならない。まずは、パトロンの歴史を紐解いてみよう。
高階秀爾は『芸術家のパトロンたち』(岩波新書 1997年)の序章で、「パトロンの登場は「芸術家」の誕生と表裏一体のものである。エジプトのピラミッド以来、強大な権力や財力によって優れた芸術的、文化的遺産を生みださせた権力者や支配者は数多く存在したが、ここでいう「パトロン」とは、単に芸術作品の経済的、物質的担い手というだけではなく、芸術家を理解し、作品を評価して、芸術家に支援を与える人びとのことである。そしてそれこそ、イタリアのルネッサンスが二世紀にわたる歴史を通じて生み出したものであった。一五四〇年、教皇パウルス三世は、ミケランジェロとピエラントーニオ・チェッキーニを、正式に同業者組合(石工組合)から解放した。そして一五七一年には、トスカナ公国の支配者であったコジモ・メディチが、すべての芸術家に対して同様の処遇を与えた。このふたつの年代のちょうと中間の時期に、ヴァザーリの『芸術家列伝』が刊行されて「芸術家」になったのである。それ以後の西洋美術の歴史は、芸術家とパトロンとの微妙な相互関係によって展開していきことになる。」と叙述している。もちろん、これにはルネサンス至上主義として考える旧来の美術史、すなわち1970年以前の芸術理論の影響を色濃く見ることが出来るが、芸術家そのものの地位向上のきっかけが、このルネサンスにあったということは間違いない。しかし、その観者である当時の人々にとっては、同書で指摘されているとうり、「芸術活動というのは、教会堂の装飾や祭壇画の制作など、つまり、宗教芸術が大部分であり、したがって今日「芸術保護」と呼ばれているものも、当時の人びとにとっては、純粋な芸術愛好心に由来するというよりも、むしろ信仰心の表われであったことは忘れるわけにはいかない。」状況があった。権力者、支配者が変われば、パトロンも時代と共に変化した。その後は王侯貴族階級がその権利を握った。そして産業革命が進行すると同時並行的にブルジョワ階級がその地位を占めるようになり、やがて一部ではあるが市民階級もそれに加わることになる。
一方、日本でのメセナはどうであろうか?冒頭で述べたように1990年企業メセナ協議会が設立されてから、大きな様変わりをしたように考えられる。その理由として、1980年代の(あるいはそれ以前からある)ような冠スポンサー的なコンサート、スポーツ大会は依然あるとは言え、営利を目的としない活動フィランソロビーに積極的に取り組むようになったからである。本文では、メセナの具体例を挙げながら、現状分析をしていきたい。
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