(まず、これからここで述べる「映像」とは、「運動画像」として、また「マンガ」とは「日本のストーリー漫画」、そして「アニメ」とは「日本のセル画によるアニメーション」と限定したい)
はじめに
ハリウッド映画は現在、その表現の見せ方、切り口等に、マンガ・アニメを連想させる特徴的性質を持ちはじめている。そしてこの、マンガ・アニメ的表現をはじめて意図的に取り入れたハリウッド映画が、ラリー&アンディー・ウォシャウスキー兄弟(兄Larry Wachowski 1965〜, 弟Andy Wachowski 1968〜)監督、1999年公開の映画、『マトリックス』だ。『マトリックス』において、マンガ・アニメ的表現を実写で可能にするために、西欧の実験的映像技術をもとに「ブレット・タイム」(銃弾の飛ぶ速度に流れる時間という意味でウォシャウスキー監督が命名)と名付けられた新たな技術が開発され、映像を新しい局面に導く、「驚異の映像」史が塗り替えられた。今年、二〇〇二年のベルリン映画祭の受賞など、マンガ・アニメは、他方でも国際的に受け入れられてきている。このような、他国に例をみない、マンガ・アニメの、世界に拡散され、浸透する現象とは一体何であるのだろうか。アニメ映画監督、高畑勲は、国宝級連続絵巻の一群は特に、映画とアニメに通じる、「時間的視覚芸術」だと、アニメ映画監督の目から実証に基づき考察している。そして、この絵巻文化が華開くような視覚的に先進する伝統的な土壌によって、マンガ・アニメが今日の国際的な視覚化社会に受け入れられるまでに発展したと結論付けている。しかしそれはアニメ監督の目線を抜けていない。マンガ・アニメの、視覚化社会に求められる現象が、絵巻と結びつく日本の視覚文化の先進性によるものとするには何か違和感がある。 この問題には、その根底に日本の文化が容易に結び付けられてしまう、情報映像化した国際社会からの〈新奇な視覚〉への依存、という仮説が立たないだろうか。
第一章 ハリウッド映画の最新映像
ほとんど静止に近い低速度に引き延ばされた、発砲された銃弾をよける一瞬、空中の格闘の一瞬、その周囲を視線は巡るように誘導される。これは「驚異の映像」という宣伝文句によって売り出された「ブレット・タイム」という全てをはっきりと観せる「スーパースローモーション」映像だ。イギリスで実験的に生まれた「タイムスライス」と、アニメ・マンガ的表現方法の影響によって可能になった映像のなかの「目に見える〈時間〉」だといえるだろう。
第二章 マンガ・アニメ現象のなかの絵巻という土壌
映像を革新し、世界に求められるマンガ・アニメ。そしてこのようなマンガ・アニメの原点だと考えられる絵巻、及び絵巻文化が華開く伝統的な土壌。確かに絵巻のビジュアル表現にはマンガ・アニメ、さらには映像に通じる「目に見える〈時間〉」で溢れている。マンガ・アニメが日本で異例に発達し、世界に浸透する現象が、この伝統的な土壌によるものだと無理なく考えられるだろう。しかしこの現象をこのような日本の視覚的先進性と結論付けるには疑問が残る。マンガ・アニメに対して国内外をとわず、どこか差別的な眼差しはないだろうか。絵巻という土壌、日本特異な視覚的先進性というだけでは、この後ろめたさには答えられないだろう。マンガ・アニメを絵巻や日本の伝統、文化と結び付けること自体が、マンガ・アニメ現象の一つに数えられるのではないだろうか。
第三章 マンガ・アニメと映像
そもそもマンガ・アニメは映像抜きに語ることができない。映像を体験した目で、映像を意識して、映像を追うように発展させられてきたからだ。マンガ・アニメは映像というものの存在なしには、誕生しなかった、映像の副産物であるといえないだろうか。ここにはマンガ・アニメの原点に絵巻の土壌が考えられる余地はない。ここでマンガ・アニメへの世界的な特別視と注目現象の理由に対する最初の問いは、もう一度問い直す必要があるだろう。マンガ・アニメが視覚化社会に求められ、さらにはその根底に日本の文化が分かち難く結び付けられてしまう現象とは、一体何であるのだろうか。
第四章 現代、「驚異の映像」と〈新奇な視覚〉
映像の副産物であり、明快で平明なビジュアルのアニメ、簡略、記号化されたマンガ、これらは何よりも情報が必要とする今日的なビジュアルと結びつくものだと考えられる。というより、そのように求められたからマンガ・アニメとして誕生したのだ。この現象は国際社会が誕生させたものとしてのマンガ・アニメの、日本像を媒介とした発展だといえないだろうか。幻想の日本、あるいは幻想の日本人像を植え付けて、マンガ・アニメは機能する。そして日本人すら、この植え付けられた像に頼ることでしか自身を見ることができなくなる。驚異を求める映像、「ブレット・タイム」から、日本という仮の像が、国内外わない新奇をあてがう眼差しによって晒されているということが読み取れるのではないだろうか。
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