御柱祭にみる非日常性の創出
 2002年度卒業論文要約
百瀬博史 
(30051507)

御柱祭には他の神事にはない独自なものがある。それは神社の周囲に4本の柱を建てるということである。柱を建てることは、神を迎え入れる標とすることであり、神社の回りに建てるのは、神殿というものがない時代からの習慣が残っているのである。そこを一時的に神の降りる神殿と見立てて、神を迎える宮となすべきところを4本の柱で区画したということになる。

ここでいう柱とは日常と非日常の境界を示す明確な媒介のような役割を果たしている。木ははるか太古の昔から、人間の生活と密接に結びついている。それは木が人間のさまざまな投影を受け入れることができるだけの多義的、多層的な奥行のある存在であったからに違いない。柱は神の力を宿らせるもの、言い換えれば「依り代」というようなもの、そして世界の中心としての意味、さらに神の降臨するはしご、あるいは橋といえる。これはある世界からこの世とは異なった聖なる別の世界への橋渡しをする中間的な存在である。人間というものは神を迎え入れるときに様々な器というものを必要としている。仏教でいうところの「三昧耶形」が、事物の中に神を迎え入れる。御柱における「柱」は常に祭りの中心に位置し、その意味を成す。人間は神や仏を実感するのには抽象的な形では難しく、何かに触れることによって実感できるのであろう。柱は、神を感じとる道具あるいは装置として利用されているのである。

御柱の儀礼演出の中では柱とともに、反復されるパフォーマンスが、日常の秩序や支配原理から浮遊し、固定化を拒む想像的な世界へ導き出す重要な手段となっている。人々は御柱を曳き、触れ、眺めることによって、日常生活の中では見ることのできないパフォーマンスを繰り広げる。

御柱祭全般に渡る【ひく・ひきよせる】という行為は、聖なる時間や空間を現出させる装置の役割を果たしている。また山の神が降りるとされる柱に直接触れ、それを感じることで、聖なるものとの交信を体験することに使われる。また、御柱の曳行に欠かせないものが「木遣り唄」である。この作法は、伐採以来、神が御柱に付き添って護持しているという信仰からでたものである。木遣りを「歌う」とは言わない、【あげる】と言う。これは特別な神的な性格を持っているからである。木遣りは神と人とを結びつけるひとつの回路として機能している。

曳行の途中にある高い断崖や川から柱を【ひきおとす】、「木落し」や、「川越え」の場面では、御柱の上には鈴なりになって人が乗り、柱もろとも転げ落ち、振り落とされる。【おちる】とは、個物の自我を振り落とし、日常的な世界との関係を脱却させる装置ともいえる。日常の主観的な認識とは異なる次元で、自分の存在を検証し、自らを理想化された他者として投影してみせるのである。

神社の境内に曳き入れられた御柱は、柱の頭部を方錘形に削り落とされ、垂直に建っていく。この時若者は御柱に【よじ登り】、しがみついて曲芸を見せる。この場は「私は天の神々の所に到達した」という神との一体化、自分と神とを重ねる装置である。【ひく・ひきよせる】【あげる】→【おちる】→【のぼる・よじのぼる】、御柱におけるこの一連のパフォーマンスは、新たな世界(非日常性)、現実の世界とは異なった独特の空間、時間を創出する重要な装置となっている。

祭りにみられる世界観はすべて循環運動を伴う文化的な装置ともいえる。文化の日常態に戻るときにもその装置は使用される。またその装置は、独立してはありえない。日常態の関係の上で存在し、その役割からすれば永遠に、日常態を再生産しなければならない。

観念の表現は、御柱祭の場合も「依り代:柱」として本質と形相の共動というかたちで認められ、聖観念を主題とした饗奏演出が見られる。表現の素材となる<かたち>、<しぐさ>、<音>などは、われわれが見たり、触れたり、聞いたり、話したり、身を動かしたりする行為に相関して、対象と成る事物がわたしたちに現し出すものである。特に日常的な表現活動では、直接的行為と対象となる事物とが、一体的な相互関係によって生活世界を形づくっており、あらかじめ芸術的な空間や時間が自律して存在しているわけである。非日常性の根源は、日常的な世界を健康に保持するために必要な仕掛けであり、地域のあるいは社会の成立と存続が生成する信仰心(宗教力:諏訪という地域意識)である。