バーネット・ニューマンの絵画における空間
 《英雄にして崇高なる人》をめぐって
 2002年度卒業論文要約
池田あすか 
(30051531)

本編では、バーネット・ニューマン(1905‐1970)の絵画がもたらす経験について考察する。ほんのわずかな構成要素で巨大な絵画を制作したニューマンは、アメリカの抽象表現主義の先駆的存在といわれている。鑑賞者は彼の手がかりの少ない大画面の前に立つ時、意味を読み取ろうとするよりも先に、絵画から圧倒されるような印象を受ける。その時彼の絵画が鑑賞者にもたらす体験は、絵画の持つ特性のひとつである画面の中に描かれた形態を手がかりとした知覚ではなく、実際の空間や、時間の中で感じるような体験に訴えかけてくるものではないだろうか。彼の絵画については既に様々な視点からの研究があり、崇高という精神的なテーマ性などによって語られるほか、フォーマリズムの批評家として権威的な存在であるクレメント・グリンバーグにより、アメリカ的モダニズムの傾向を示す代表的な絵画作品として、また、純粋絵画の好例として、「抽象表現主義以降の絵画」の中で取り上げられている。しかし、私は主にその鑑賞体験の特異性によってニューマンの絵画は、従来のモダニズム理論の中に納まりきらないような部分をもっていたのではないかと考える。そこで本論では、絵画が鑑賞者に与える知覚に着目し、彼の《英雄にして崇高なる人(Vir Heroicus Sublims)》(1950‐1年)〔図1〕が持つ特性について考察する。

この論を進めていく手続きとして、まず第一章で、ニューマンの絵画が抽象表現主義の中でどのような特徴を示すものであるか分析する。《英雄にして崇高なる人》は、その242.2×513、6cmの横長の矩形をした画面のほとんどが赤一色で平坦に塗り込められた色面で、そこに細い直線が5本垂直に貫く簡単な画面構成である。そのニューマンの絵画を、グリーンバーグは、表象を呼び覚ます記号としてのイリュージョンが捨て去られた、純粋な視覚の芸術として評価している。しかし、ニューマンの絵画の特性は、それだけであろうか。

一方、マイケル・フリードによって批判的に扱われるミニマル・アートは、同じように純粋性の追求によって生まれたものだが、その鑑賞には旧套的絵画の視覚体験よりも、もっと全体的な感覚を必要とする体感的なものである。さらに、この場合に知覚される空間は絵画の枠の中ではなく、鑑賞者の立つ空間を含めた作品の外の空間である。

して第二章においては、ニューマンの絵画の構造を明らかにする。ニューマンは、主題との関係を示す画面上の表象記号を否定していた。そのため観者が主題として認められるような現実世界の痕跡を絵画に表わさないよう、ジップとフィールドを図でも地でもない同じ水準としている。彼が目指したのは、絵画の空間が枠の中に広がるキュビズムやモンドリアンの絵画にはない新しい絵画の世界の発見である。そこで、ニューマンは記号の否定によって、絵画の新しい世界を切り開こうとした。つまり知覚の革新である。

第三章でそのニューマンの絵画がもたらす経験について考察し、その特性を明らかにする。ニューマンは、鑑賞者がもたらす経験について絵画から遠く離れてみないことを要求するという、大きな絵画を鑑賞するような困難なシチュエーションをあえて求めている。これはどのようなことを意図したものかといえば、画面の外が見えないほどに圧倒的な大きさの絵画を前にして鑑賞者の視界に溢れる色彩の経験を与えることを想定している。その結果として、観者はまるで色に包み込まれたような感覚をもつのである。前にも後ろにも、360度すべてが絵画の影響する領域となる。鑑賞者は、視界に色が広がる時、自分は現実の地面に立ったまま、その絵画に包み込まれた空間に立っているような感覚を覚える。これがキュビズムの絵画にはない、ニューマン独自の主題でもあり絵画における新しい知覚である。

終わりに

これまでの検証により、ニューマンの絵画が知覚させるのは主題との関係を示す表象記号でも絵画の中の空間でもなく、現実の空間であることが明らかにされた。ニューマンの単純で巨大な画面は、空間を体感させる装置として働くため、圧倒的な力を持つのである。特に《英雄にして崇高なる人》においては意味と共存することなくその空間を感じることができる。そしてニューマンは見る者が、かつてのような方法で彼の作品を目にしただけでは何も表象しない抽象で、彼は自分の作品によって絵画の記号が持つ表象性や、鑑賞者が読み取ろうとする習慣を打破することを求め、新しい絵画芸術の世界を切り開いた。その際知覚される空間は絵画の枠の中ではなく、フリードが否定した鑑賞者にとって旧套的絵画の視覚体験よりも、もっと全体的な感覚を必要とする、フリードが演劇的といった体験のように絵画が絵画としてのイメージを鑑賞者の体験に訴えるものである。しかし、ニューマンの絵画の体験を検証すると、純粋性と演劇性の関係はかけ離れたものではなかったようにもみえるのである。