45×47,2?の画面に《エロシェンコ氏の像》は描かれている。右側から描かれた彫りの深い風貌の目元は静かに閉じている。背景のレガンス色に、黄金色の巻き髪が溶け合っている。白いルパシカを着て、顔以外は薄塗りである。エロシェンコは盲目のロシア詩人で、当時、「新宿中村屋」に身を寄せていた。この詩人は、天衣無縫な人柄と、美しい風貌によって、出会う人をみな魅了した。また、杖も使わずに坂道を駆け下りられるほどに、冴えた感覚を持っていた。作者中村彝がは、この魅力的な詩人を8日間をかけて描いた。彝が自書『藝術の無限感』の中で「あの絵は色数をできるだけ少なくして描いた」と述べているように、色数を限った静かな画面の中、のびのびとした筆遣いで描かれている。私自身、模写を試みたが、イエローオーカー、バーントシェンナー、バーミリオン、ホワイトの4色で近い雰囲気を出すことができた。中村彝(1887-1924)は水戸出身の画家で、結核で37歳という若さで亡くなった。もっぱら、文展、帝展を発表の舞台にしながら、「単なるアカデミズムの画家と規定し得ない画家」(『19,20世紀の美術−東と西の出会い』高階秀爾著 岩波書店 1993年刊)といわれている。軍人を目指して幼年学校へ入ったが、17歳で結核を診断され、学校を中退し療養生活に入る。1906年(19歳)、絵を学ぶため白馬会研究所、太平洋画会で学ぶが、ものの形だけにこだわる教育方法は、彝には満足のいくものでなかった。この頃、友人野田半三の感化で、市ヶ谷教会で洗礼を受けキリスト教徒になる。この洗礼は、その後の彝の創作活動に大きな影響を与える。
1908年、ロダンに彫刻を学んで帰国したばかりの荻原守衛を新宿中村屋に訪ねる。熱心に個人主義を説く荻原の芸術論は、彝に強い影響を与え、その夜は眠ることもできないほど興奮した。そんな彝にとって、『白樺』などを通じて積極的に紹介され始めた後期印象派の画家たちの複製図版や、翻訳・評論は大きな感動で、作家たちの芸術にかけた一途な生き方に共鳴する。丸善で買ったレンブラントの画集を求め、レンブラント研究に熱中する。このレンブラント画集は、結核のために、当時流行っていた外遊もままならない、彝の大切な師となり、その後も彝はレンブラント、ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどの画家の影響を受け入れてきた。自画像はレンブラント、風景・静物画はセザンヌ・ゴッホ、女性を描く時はルノワール・セザンヌというように、残された作品からその影響は明らかだ。そして、キュビスムやゴシックの構成美への傾倒を見せる晩年の作品へと、彝の作風は、自身の目指すものを求めるため変貌する。しかし、外貌は変化しながらも、いつでも心の底で見据えようとしたものが、作品をとおした人間の悠久感・無限感である。彝は、C・チェンニーニの『絵画技法論』(中央公論出版)の訳を引き受けたり、輸入の美術書を原書で読むほど明晰であった。だから、西洋の絵画の表現方法や色彩を理解し、受容したことは勿論であるが、西洋の画家たちの絵画思想までも咀嚼し、自分の思想で描こうとした。《エロシェンコ氏の像》は、当時「官展始まって以来、衆評一致して賛辞を惜しまなかった」作品として国の重要文化財に指定されている。中村彝は多くの自画像と肖像画を描いた人物画家でもある。どれもモデルを凝視しながら描き進むやり方であり、エロシェンコに対峙した時も、非常に強く感動し、その感動を8日間も持続しながら描いた。そうさせる魅力がエロシェンコにはあったのだ。エロシェンコは、幼い時、病のため盲目になった体験から、権威への反発と人を肌の色でなく人間性で見る心を持っていた。研ぎ澄まされた感覚で、外界を感じようとするエロシェンコから、一層内的なものが感じられ、彝には神秘的でさえあった。目が見えないことを除けば、健康で、大きな声で歌い、ヴァイオリンを奏で、世界中を回っている。彝の持っていないものをエロシェンコはすべて持っている。エロシェンコを描きながら、彝は、エロシェンコの心の目を通して世界を見ていたのではないでろうか。その気持ちが、それまでの外面の写生だけに終わらず、モデルの内面まで描かせた。彝の高揚した思いは、髪の毛の軽やかな筆遣いや、ぐいと力を込めたと思われる鼻筋のホワイトに見つけることができる。《エロシェンコ氏の像』は肖像画ではなく、中村彝を映した自画像でもある。《エロシェンコ氏の像》は、さまざまな画家たちからの感化を咀嚼し消化して、迷いもなく、誰の技法にもとらわれることなく描くことができた。それが、彝の求め続けていた悠久・無限の写実であり、「敬虔なる緊張を以て対する時、自然は最も厳かなる美を示してくれる」と語る彝の写実観を体現するものとなっている。
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