日本画の多くは、現在かなり国外に流出し、世界各地の美術館や個人コレクターの所蔵するところとなっている。その原因として考えられるのは、日本に来た外国の人が、その素晴らしさに驚き買い求めたことや、その時代の作品の保持者が外貨を稼ぐための手段に使い売買したり、新しい文化が入ってきたときに、今までの日本の絵画を古いものとみなし、新しいものに走りその価値を分からずに手放してしまったことなどが考えられる。そのような中、伊藤若冲作の《動植綵絵》は、若冲が寄進した相国寺の住職が手放すことなく、大切に保管していたため、日本の花鳥画の最高傑作の一つであると言われる作品の30点すべて、国外に持ち出されるということなく、我々のもとに残ったのである。現在は、宮内庁に献上され皇室御物となっているが、200年たった今でも、まるで今描きあげたばかりのような美しさを保っている。この作品の素晴らしさに心をうたれた保管者が、おそらく大切に手入れしてきたためであろう。
この《動植綵絵》の作者である若冲は、幼い頃から絵を描いていたわけではなく、家業である青物問屋の主人として働いてきた。しかし、あるとき絵を描くことに興味を持ち始め、狩野派のもとで絵の勉強を始める。そのうち、それでは物足りなくなり独学で絵を描くようになる。自分のまわりにあるものをとことん見て、それをそのまま正確に写し出すということを繰り返していくうちに《動植綵絵》のような傑作を描くまでになるのである。若冲の作品は、見るものをそのまま忠実に描くという写生画の要素を持っている。
若冲の生まれ育った時代のなかで、若冲の描く絵画、狩野派が主流を占めている時代のなかで、どの流派に所属することなく、自分独自の絵画法に基づいて描かれ、他の絵とはかなり違っている。また、若冲の生き方にしても、その時代の京都の他の大店の主人の生活とはかなり違っている。このように、その時代に当たり前のことをあえてしなかった若冲はいったいどんな人だったのだろうか。新しいものを常に追い求めて行く探求者だったのか、ただ単に人と同じ事をしたくなかっただけの変人なのか、などいろいろ理由が考えられる。
若冲は、今まで師より習っていた絵画画法から離れて、自分独自の描き方を《動植綵絵》で行っている。その方法とは、執拗なまでに植物や昆虫、動物、鳥などをじっくりと何時間もかけて細かく観察し、それを描き出すといものである。特に、庭に放し飼いにした鶏などは、その羽の一本一本にまでていねいに鮮やかな色彩で描いており、若冲の観察がいかに執拗で細かいものであったのかが伺える。他にも《動植綵絵》の花鳥画で、同じようにしっかりと見て、そのままの姿を映しだした作品が見られる。しかし、それだけでは飽き足りず、若冲は、実際に見えている鶏をより美しく、自分の描きたいように変化させて色を付けていったのである。このことから、若冲は、写実を求めていたのではないかと考えられるのである。そのため、若冲の作品はその時代では考えられないような色彩であり、構図であったために奇抜な印象を見る人に与えてしまったのである。しかし、奇抜でありながらも、若冲の天性のデザイン感覚がそれを通り越していたのである。そのことから考えて写生画といえば、はじめ狩野派で学んだ円山応挙(1733〜95)の、明和2年(1765)に描いた《雪松画》が最初であるように思われているが、もしかすると若冲の《動植綵絵》の方が一足先に写生画として描かれたのではないかと思われる。このことから、若冲は京都の奇想画家として分類されているが、私は、写生画家と呼ぶ方がふさわしいと考える。たしかに若冲の作品の中には、奇抜な色をつかったり明らかに誇張して描いたように思われる作品も多く見られるので、奇想画家といわれているのだと思うがやはり若冲は、写生画家に位置されるべきだと考えるのである。というのも、若冲が描いたものは、真面目に自分の目に映るものをそのままに写し出そうとして描いたものであり、見れば見るほどそのものを通して理想の姿を追い求めるようになり、自分にとって興味深い場所を強調しようとして、奇抜な色を使うことになったとしても、もとにあるものは変わらないからである。そこで、第一章では、若冲の絵画に対する姿勢と本格的に絵を描くようになるまでの過程について、第二章では、《動植綵絵》を描くことになったいきさつについて、第三章では、円山応挙の作品を見ながら若冲絵画とのちがいを比較し、若冲が絵画をどのように表現していったのかを述べていきたい。
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