これまで我が国では殆ど知られていなかったフリーダ・カーロも、展覧会や映画等々で今や最も有名なメキシコ人の一人であるかもしれない。交通事故の後遺症、30回を超える手術、あるいは高名な画家であった夫との確執など、波瀾万丈の人生の中で、見るものを驚かせる絵を描き続けた人というのが、彼女に貼られたレッテルであろう。しかし、本当に彼女は、率直に自らを描いたのであろうか。彼女が残した自画像から、彼女は何を描いたのか、描かなかったものは無いのか、以下考察していきたい。
1 作品の特徴 (1)第一期 1930年前後から1937年 この時期の作品は、メキシコの民衆芸術との結びつきが強い。特にレタブロと呼ばれる奉納画は、単にその手法が彼女の芸術制作に効果的であるという理由だけでなく、絵を描く行為そのものが、彼女の苦しみの吐露になっていること、そして絵画の中に、本来レタブロが果たしてきた「代理犠牲」という役割を期待した可能性を考えると、彼女の芸術活動と深いところで繋がっていると考えられる。 (2)第二期 1937年から1940年 彼女の作風は大きく変化し、シュルレアリスティックな表現が際立っていく。中でも、《水がくれたもの》は高い評価を受け、彼女こそ真のシュルレアリストであると、持て囃されるようになる。しかし、彼女が描いたのは、あくまで彼女にしか描けない彼女自身の現実であった。 (3)第三期 1940年から死へ この時期、彼女は堂々たる自画像の連作を発表し、海外での評価も高まっていく。以前のような流産や自殺といった個人的な物語性の強い作品よりも、メキシコ人としての威厳と悲しみに満ちた人間性を感じさせる自画像が多い。初期の《ヘンリー・フォード病院》や《ちょっとした刺し傷》といったような作品に見られる強烈さは影をひそめ、客観的に自己を眺める目、締念や慰めといったような静かな感情が溢れているように思われる。
2 《折れた背骨》 カーロの芸術家としての評価が高まった1940年代を代表する作品が《折れた背骨》である。裸身にコルセットを装着し、全身に釘が刺さったこの図を、聖セバスティアヌスに準える人もいるが、彼女は決して聖人では無い。すべての自画像の中で、最も無防備な姿で描かれたこの作品は、他の自画像が不機嫌でみる者を拒むかのような視線を放っているのに対し、何かを訴えかけるような素朴で切ない表情が印象的である。さらに目を凝らすと、身体の中央を貫く白い骨のようなものは、実はギリシア神殿の柱であることに気がつく。喉元に突き刺さるひび割れた円柱というシュルレアスティックな表現は、永遠に解放されることのない痛みを、芸術のテーマにするのだという強い意志の表明ではないだろうか。芸術のテーマにはなり得ないと思われていた傷や痛みを描き続けることで、人々に衝撃を与え続け、終には自らの生命を描く芸術家としての評価を得ることが出来たという点で、この作品は、「痛みを芸術に変えた」作品として、高く評価されるべきであろう。
3 描かれなかったあし 以上のように、彼女の作品は、痛みと切っても切れない関係にある。彼女は強靭な意志で率直に自己を描いたと評されるが、果して彼女は、自己の総てを描ききったのであろうか。この点に注目して、彼女が小児麻痺の後遺症の残るあしを、どのように描いているのかについて探っていきたい。 カーロの自画像を追っていくと、あれほど血に塗れた姿を描いているにも関わらず、幼い時に患った障害のある右あしは、殆ど描かれていないことに気が付く。《ちょっとした刺し傷》のような事件性の強い作品においてさえ、右あしは左あしと変わりなく表現されている。《水がくれたもの》でも、傷ついた右あしが描かれてはいるものの、障害を思い浮かべることは困難である。見たままに描かれたのは、1931年の《すわる自画像》というデッサンでグルグル巻かれた包帯に隠された右あしだけである。 彼女は人生の終わりの10年間に日記を書いているが、この中に描かれたイラストレーションを見ると、右あしが描かれていると認められるのは11枚、その内、4本のあしだけが1953年の右膝下切断を表しており、元々の障害を表するものは一枚も無い。つまり彼女が描いたのは、流産や交通事故が原因となった後天的な傷であり、幼い時に苛めの対象となった右あしの障害を描くことは、生涯を通じて無かったということになる。 あれほど自己の痛みに固執した彼女が、なぜ右あしを描かなかったのであろうか。ここに私は、「表象することの困難さや不可能性」を見る。フリーダ・カーロと言えども「語り得ぬこと」や「表象し得ぬこと」は存在したのである。表象し得ぬものを抱え続ける人間としての苦脳があったからこそ、彼女は、真実のあしを描く代償に、自らの痛みを芸術に変えることが出来たと言えるのではないだろうか。
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