劇団青年団を率いる平田オリザは、客席に背を向けて囁くように話したり、複数の俳優が同時に話す「同時多発会話」など、その独特の演劇スタイルと、それを裏付ける演劇論によって現代演劇の中に確かな位置を占めている。 平田は、「主義主張の演劇を否定し、世界をダイレクトに描写する演劇」、「現代口語演劇」を提唱し、それは「参加する演劇」を志向するものだと規定している。しかしながら、平田のいう「参加する演劇」の内実が明確になっているわけではなく、それについての評価も定まっていない。 これまでも千田是也や寺山修司、唐十郎らが観客論を展開したが、大量消費社会の中で、演劇も創造=生産、鑑賞=消費という関係だけが強化され、これらの観客論は沈黙せざるを得なかった。しかし、90年代、バブル経済の崩壊に伴い、人々が自分の足下を見つめ直し始めたのと機を合わせたように登場した平田によって再び観客の問題が浮かび上がってくることになった。 平田作品の最も際だった特徴である「同時多発会話」は、劇空間と現実の境界をあいまいにし、その劇空間に観客の居場所を与えた。平田のつくり出す台詞の短さは観客の日常感覚と重なり、また間投詞や感嘆詞の多用は、それによって観客が台詞を交わしている者同士の関係を感覚的に理解する手助けとなる。また次々と変化するプロットは、観客の視線を動かし、緊張した感覚を一端弛緩させ、次の集中に備える効果を生む。そしてこの緊張と弛緩のリズムが作品全体を持続して集中する観客の身体を作っていくことになる。さらに平田は台詞にとって余計なものを排除する。その結果、平田作品ではほとんど音が使われず、照明も全体として平明で、上演中はほとんど観客の意識に上ることはないが、それだけ余計にそこに現れる音や光の印象は強い。平田は上演される空間にもこだわる。従来の舞台空間は現実から切り離されたものとして観客の前に示されるのに対し、平田の劇空間は現実と地続きの、しかしどこかズレた世界として立ち現れるのである。この現実空間と劇空間の境界のあいまいさが、観客を無意識のうちに現実と劇空間の間を行き来させることになる。これらの現実と劇空間の境界をあいまいにする仕掛けが意味するところは、「絶対的他者」である観客を作品世界に取り込むためのコンテクストの摺りあわせとして捉えられる。 従来の演劇が「伝えたい」という欲求に支えられていたのに対し、平田は、演劇にあるのは「表現する」ことだけだという。平田にとっては観客がどう受け止めるかは問題ではなく、彼に見える世界をどう表現するかだけが問題なのである。しかしその先にあるのは舞台も観客も含めて「平田オリザの作品」という閉じた世界となってしまうのではないだろうか。そこでの観客は一人ひとりが「自立」し、集団の中においても自己の判断・感性だけで舞台に向き合うことができる者として存在しなければならない。 平田の「参加する演劇」は観客に演劇を創る目で観ることを求める。そのため平田は観客に対し、予め自分の作品の造り方を伝授することによって「正しい参加の仕方」を教えようというのである。しかしそれは結局、徹底して教育する演劇・啓蒙する演劇、「参加させる」演劇にならざるを得ない。 日本の現代演劇は未だに観ることが創ることの下位に置かれたままであり、そこでは観客は他者として存在できず、周縁の者として存在している。そのために平田は、作品に対峙して主体的に作品を理解しようとする自立した観客はいないとしながら、その「参加する演劇」は観客の他者性を前提としているという矛盾を抱え込むことになる。 演劇という強靱な制度を支えているのは観客であり、その観客の自立が保障されるためには観客自らが他者性を認識しなければならない。作り手は舞台を差し出し、その表現法によって観客自身の変革を促すことしかできないのである。創造と鑑賞は統一されることを指向するが、現代においては少なくともその間に決定的な断絶がある。現代演劇が「創る−観る」という関係にある限り観客は他者として存在し続ける。観客が他者として存在するからこそ現代演劇は成立しているとも云える。 今、観客に必要なことは、平田のいう創造体験による鑑賞する視点の複眼化ではなく、自らの他者性を確認した上で、舞台との相互の働きかけの可能性を信じ、その個々の体験をつき合わせ、わが身に引き受けなおすことであり、その観客個人の視点を観客同士で補い合う複眼化こそ求められているだろう。私たちはまずは自立した他者としての視点を持つ観客として、舞台を主体的に鑑賞するためにも、その他者としての視点を交流交換するコミュニケーションの能力を高めていかなければならない。その中でこそ、創造と鑑賞が対等に参加する場としての演劇が開かれるだろう。
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