はじめに 能楽は世界最古の演劇であるが、六百年間にさまざまな変遷を遂げてきており、現代の演劇として、能をとらえていくことが必要である。能の重要な要素の ひとつが舞であり、その所作は型と呼ばれる。型の基本の立ち姿を「構エ」と言うが、日常にはないこの姿勢を的確に身体と言語の両方で表現していたのが、観世寿夫である。 寿夫の活動は多岐にわたるが、なかでも、亡くなる前年に、フランス人俳優かつ演出家のJ=L・バローとの競演を果たした舞台は能における身体の在り方 を如実に示した点で意義深いものであった。国や地域を超えて舞踊というジャンルが広がりをみせている21世紀の先駆としてこの舞台を位置づけ、検証してみようというのが本稿の目的である。
第一章 ジャン=ルイ・バローと能 19世紀以降フランスに受容されはじめたジャポニスムは、20世紀初めの演劇の分野にも深く浸透しており、フランス現代演劇の創始者と評価されている ジャック・コポー、シャルル・デュラン、ポール・クローデルらは、能とギリシャ劇とが、これからの演劇の核を成すものと考えていた。これらの演出家たちの影響を直接受けていたJ=L・バローにとって、長い間能は憧憬の対象となっていた。 テアトル・ド・フランセを率いて来日したバローは、観世寿夫の『半蔀』で「これほどまでに美的で、内面的で、神秘的なものを見たことがなかった」とその時のことを回想する程、感銘を受け、ここから寿夫との交流が始まる。寿夫のパリ留学を全面的に支援し、世界演劇祭などをはじめとして日本の演劇を紹介するなど、その生涯をかけて能と関わり続けた。
第二章 観世寿夫と西洋劇 寿夫は終戦の年に二十歳を迎えるが、その混乱の中で「能と自分が対決する」という決意をする。それは様々な活動をもって実践される。世阿弥伝書研究会では世阿弥の声に耳を傾け、同時に能以外の分野に進出し、その経験をまた能に生かした。 とりわけ、ギリシャ悲劇と能との共通点−徹底した写実はないが、対象の本質を表現すること−を強く意識し、1970年に<冥の会>を結成し、『オイディプース王』『アガメムノーン』『メデア』などに主演した。こうした精力的な活動は、閉鎖的な能楽界から批判を浴びることもあったが、世阿弥が言った「離見の見」にもつながる行為であったと私は高く評価する。
第三章 <演劇作業の根拠> 1977年、バローと寿夫が同じ舞台に立ち、いくつかのテーマに沿って交互に演技を披露した。最初のテーマでは、寿夫が型の基本「構エ」、「運ビ」、「サシ込ミヒラキ」を、バローは「生命の目覚め」と題された演技を見せた。バローの動きは確かに素晴らしかったが、身体表現がひろがりをもった空間と方向をたちあらわせるまでには至ることはなかった。それに対して、寿夫の「サシ込ミヒラキ」は、寿夫が残した言葉どおり「息のつめ開きそのもの」であり、「見る人一人一人が共にそれを呼吸する」ことができるものであった。 バローによる鐘を撞くパントマイムと、狂言の野村万作と寿夫の鐘を撞く型の対決も、同様に作用した。最後を締めくくったのは、寿夫の『野宮』と、バローの『死の床に横たわりて』であったが、この驚嘆に値する見事なバローの呼吸は、寿夫の呼吸とは異なる種類のものである。この日の舞台は、演劇とは何かという根源的な問いに答えたものとして記憶されるべきであろう。
結びに代えて 能においては、舞台の構造全体が、躯から躯へと伝えられてきた。抽象性の高い型は、江戸時代以降、所作の単元として重宝され、それをひとつひとつ確実に「何も考えずに」修得することが良しとされてきた。いわゆる名人達の時代である。 しかし寿夫は「能役者としての生き方をもう一度考え直してみなければならない」と考えていた。能が変わっていくことを前提としながら、能の何を伝承していくべきなのか。寿夫を支えていたものは、その類稀なる思考力であったことは明らかである。寿夫の跡を継ぐ者としては、野村萬斎を挙げておきたい。彼の身体には、寿夫の教えが息づいていることは明白である。伝統を現代に生かすためには、このような才能ある役者の存在が欠かせないと痛感する。
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