「御所人形」創始からの流れ
 —「年画」との関わりを中心に——「年画」との関わりを中心に—
 2003年度卒業論文要約2003年度卒業論文要約
岡本万貴子 
29851099

 日本の人形史の中で、今日もなお発展を続けている「御所人形」は、その創始については、さだかではない。その特徴は「三等身」のフォルム、はち切れんばかりに太った手足、顔の表情は平安朝貴族が理想とした「引目鈎鼻」の顔容を伝え、かわいらしさを表わす点において型破りである。江戸時代中頃より続く人形司十三世面屋庄三氏は、「三等身のプロポーションは、京人形師の生み出した究極のデホルメである」と自らの体験にもとづいて述べられている。この点、山田徳兵衛氏は『日本人形史』の中で「外国の芸術の影響を受けることなく、我国独自の審美眼において仕上げられている」と述べられている。しかし、両氏の説はそのまま受け入れがたい点が、あるのである。
 江戸時代、人形制作が盛んにおこなわれた当時、その「究極のデホルメ」にたどりつくにあたって、人形師達を触発したであろう大きな要因があったのではないか、その点を「年画」との関わりを中心に考察したい。
 まず始めに第一章において、これまでの先行研究の検討をおこなう。山田徳兵衛氏の「御所人形」は「這子」の高級品であるという説である。「這子」を子どもが這う姿のように白いひとねにうつぶせにして置いた点や、着物を着せた姿が「立稚児」に似ている点などから、このような説が導かれたと思われる。しかし、「這子」は「天児」と対とされ、江戸時代後期まで、それ自体の秡いの役割を担いながら作り続けられていた。
 次に山辺知行氏の江戸時代前期に作られた嵯峨人形の内の「裸嵯峨人形」の発展したものが「御所人形」であるという説である。←「裸嵯峨人形」は江戸時代後期まで制作され、木彫で胡紛仕上げで、幼児の姿を写した点などは類似点はあるものの、幼児の姿をそのまま写したフォルム、江戸時代後期まで制作されていた点は、「御所人形」制作時期と重なる点などから、両氏の説はもはや受け入れられないのである。
 そこで「御所人形」の創始に関連するものとして注目されるのが、江戸時代に新たに輸入されるようになった「年画」、そしてそこに描かれている「唐子」なのである。
 第二章では、「御所人形」と「年画」に描かれた「唐子」の影響関係を探るために、「唐子」の特徴である「唐子髷」や「腹掛け」の、我国における出現時期を中心に考察を進めることとする。
 江戸時代における「唐子スタイル」の定着は、黒田日出男氏の「唐子論」を手がかりに、中世から近代における子どもの姿の変換を、絵画の中の子どもの姿を追って検討する。するとそこには江戸時代に我国に流布した「子宝」思想が浮かび上がってくると同時に、「唐子髷」、「腹掛け」といった「唐子スタイル」の定着がみられるのである。それは明和年間(1764〜1772年)の浮世絵の子どもの姿に明確に見られ、この「唐子スタイル」の定着に大きな役割を果たしたものとして注目されるのが「年画」である。
 第三章では「年画」に見られる「唐子」と「御所人形」との共通性を検討する。「年画」とは、中国において正月や婚礼、慶事などの際に、長寿、豊穣、多子を願って室内に飾る「吉祥寓意画」である。この「年画」が我国に大量に輸入された時期は明和年間である。
 次に「年画」と「御所人形」の類似点を挙げると「年画」の[玩童駿騎図]と「御所人形」の[水引手犬乗り兄弟]の比較によって分かるように、その構図、モチーフはそのまま「御所人形」に再現されている。これは「年画」が「浮世絵」の世界で和様化されたのと同様である。それは構図、モチーフはもとよりテーマ性においても類似点は多い。
 「年画」も「御所人形」もテーマは「図柄からの読みとり」によって表わされている。
 第四章では、江戸時代における「年画」の影響力についてであるが、永田生慈氏は「浮世絵」と「年画」の共通性を多角的に捉えた上で、母子図の出現を挙げられている。我国で錦絵の普及とほぼ時期を同じくして母子図が描かれるようになり、この母子図が「子宝」思想や「唐子スタイル」の定着に与えた影響は大きいことが窺える。このように長崎出島より輸入された「年画」は、中国文化や思想を受容するのに多大な役割をはたしていたのである。
 最後に結びにかえて、これまでの考察によって「年画」が「御所人形」の創始に大きく関与しているという本論の輪郭は明確になったと思われる。
 「年画」から受けた様々な影響の和様化によって、「かわいらしさと幽玄」という相反する美意識を生み出した「御所人形」は、格調高く今も観る側に語りかけてくるのである。

 日本の人形史の中で、今日もなお発展を続けている「御所人形」は、その創始については、さだかではない。その特徴は「三等身」のフォルム、はち切れんばかりに太った手足、顔の表情は平安朝貴族が理想とした「引目鈎鼻」の顔容を伝え、かわいらしさを表わす点において型破りである。江戸時代中頃より続く人形司十三世面屋庄三氏は、「三等身のプロポーションは、京人形師の生み出した究極のデホルメである」と自らの体験にもとづいて述べられている。この点、山田徳兵衛氏は『日本人形史』の中で「外国の芸術の影響を受けることなく、我国独自の審美眼において仕上げられている」と述べられている。しかし、両氏の説はそのまま受け入れがたい点が、あるのである。
 江戸時代、人形制作が盛んにおこなわれた当時、その「究極のデホルメ」にたどりつくにあたって、人形師達を触発したであろう大きな要因があったのではないか、その点を「年画」との関わりを中心に考察したい。
 まず始めに第一章において、これまでの先行研究の検討をおこなう。山田徳兵衛氏の「御所人形」は「這子」の高級品であるという説である。「這子」を子どもが這う姿のように白いひとねにうつぶせにして置いた点や、着物を着せた姿が「立稚児」に似ている点などから、このような説が導かれたと思われる。しかし、「這子」は「天児」と対とされ、江戸時代後期まで、それ自体の秡いの役割を担いながら作り続けられていた。
 次に山辺知行氏の江戸時代前期に作られた嵯峨人形の内の「裸嵯峨人形」の発展したものが「御所人形」であるという説である。←「裸嵯峨人形」は江戸時代後期まで制作され、木彫で胡紛仕上げで、幼児の姿を写した点などは類似点はあるものの、幼児の姿をそのまま写したフォルム、江戸時代後期まで制作されていた点は、「御所人形」制作時期と重なる点などから、両氏の説はもはや受け入れられないのである。
 そこで「御所人形」の創始に関連するものとして注目されるのが、江戸時代に新たに輸入されるようになった「年画」、そしてそこに描かれている「唐子」なのである。
 第二章では、「御所人形」と「年画」に描かれた「唐子」の影響関係を探るために、「唐子」の特徴である「唐子髷」や「腹掛け」の、我国における出現時期を中心に考察を進めることとする。
 江戸時代における「唐子スタイル」の定着は、黒田日出男氏の「唐子論」を手がかりに、中世から近代における子どもの姿の変換を、絵画の中の子どもの姿を追って検討する。するとそこには江戸時代に我国に流布した「子宝」思想が浮かび上がってくると同時に、「唐子髷」、「腹掛け」といった「唐子スタイル」の定着がみられるのである。それは明和年間(1764〜1772年)の浮世絵の子どもの姿に明確に見られ、この「唐子スタイル」の定着に大きな役割を果たしたものとして注目されるのが「年画」である。
 第三章では「年画」に見られる「唐子」と「御所人形」との共通性を検討する。「年画」とは、中国において正月や婚礼、慶事などの際に、長寿、豊穣、多子を願って室内に飾る「吉祥寓意画」である。この「年画」が我国に大量に輸入された時期は明和年間である。
 次に「年画」と「御所人形」の類似点を挙げると「年画」の[玩童駿騎図]と「御所人形」の[水引手犬乗り兄弟]の比較によって分かるように、その構図、モチーフはそのまま「御所人形」に再現されている。これは「年画」が「浮世絵」の世界で和様化されたのと同様である。それは構図、モチーフはもとよりテーマ性においても類似点は多い。
 「年画」も「御所人形」もテーマは「図柄からの読みとり」によって表わされている。
 第四章では、江戸時代における「年画」の影響力についてであるが、永田生慈氏は「浮世絵」と「年画」の共通性を多角的に捉えた上で、母子図の出現を挙げられている。我国で錦絵の普及とほぼ時期を同じくして母子図が描かれるようになり、この母子図が「子宝」思想や「唐子スタイル」の定着に与えた影響は大きいことが窺える。このように長崎出島より輸入された「年画」は、中国文化や思想を受容するのに多大な役割をはたしていたのである。
 最後に結びにかえて、これまでの考察によって「年画」が「御所人形」の創始に大きく関与しているという本論の輪郭は明確になったと思われる。
 「年画」から受けた様々な影響の和様化によって、「かわいらしさと幽玄」という相反する美意識を生み出した「御所人形」は、格調高く今も観る側に語りかけてくるのである。