宮本武蔵の水墨画
 ―その画風形式と芸術的性格についての考察―
豊島宗七 
(29851151)

 剣豪として知られる宮本武蔵(1584〜1645)は、画人としても日本美術史に名を残した。代表作「枯木鳴鵙図」をはじめ作品4点が国の重要文化財に指定されている。武蔵は文武両道を極めた達人といえよう。ではいったい武蔵は誰に画を習い、いつ頃描いたのだろうか。師は誰か。主にどんな作品を描いたのか。武蔵の画のどんな点が優れているのか、等々の疑問を解くのが本論文の趣旨である。
 江戸時代後期頃から一部の絵師たちに武蔵の作品を評価する文献がみられるが、明治以降から今日まで武蔵に言及した画論は優に50点を超え、武蔵に関する著作は100冊に近い。いかに人気があるかが解る。だが、どの著作論文も武蔵画に関しては武人画として捉え過ぎる傾向が主流である。本論文では武蔵を一人の独立した画人として考察し、作品の芸術的性格について論ずる。
 まず、武蔵の作品はどんなものがあるかを検証する。大別して花鳥画と道釈人物画が殆どである。他に馬、龍図があるが、屏風絵の1点を除いていずれも小品で、彩色はない。筆者は現存のうち24点を真作として特定した。戦前にはこの倍があったと文献上たどれるが、戦災で焼失したか行方不明になったのは惜しまれる。偽作、贋作は多数ある。武蔵は署名や落款は1点を除いて全くしなかった。公表する意志がなかったので没後第三者による後印がなされた。そのため「伝・宮本武蔵の作品」が各地に発生することになった。
 武蔵の花鳥画は「鵜図」「鴨図」「鳩図」「翡翠図」「竹雀図」など、道釈人物画は「達磨図」や「布袋図」で禅機に溢れた作品10点がある。他に「野馬図」「龍図」を含めて、武蔵が禅宗に帰依して作画したことが推測される。以上の武蔵の作品について江戸時代後期には、武蔵は長谷川等伯、海北友松、矢野吉重などの一流画家の弟子だったと指摘している。だが、これを裏づける資料は全くなく、正確さを欠くものといえる。たとえば、武蔵の「枯木鳴鵙図」と等伯の「枯木猿猴図」の枯木の描き方は似て非なるもだ。両者の「松樹」の表現も異なっている。むしろ武蔵と友松の作品が酷似している。「布袋観闘鶏図」や「龍図」の筆遣いや構図が似通っている。だが師弟関係があった記録は一切ない。矢野派ではどうか。武蔵は1640年、57歳のとき熊本藩主 細川忠利に迎えられ客分となった史実があり、62歳で他界するまで居住した記録がある。この時の熊本藩御用絵師・矢野三郎兵衛吉重とは藩主を介して深い交流があった。武蔵は御用絵師が管理する細川家の収蔵品のうち同時代の画家に私淑したり、当時の画壇の常として宋元画や粉本によって画道に精進した。絵師吉重が指南役を努めたが、武蔵は剣の道と同様、独学で画の道を究めていき、独自の画風を形成したことが認められる。また道釈人物画はパトロン忠利の急死が引き金になって禅宗に帰依した武蔵が、いわゆる禅画に手を染めたものと思われる。
 次に武蔵画の芸術的性格を考察してみると、筆者の分析では5つの特色が指摘できる。@減筆体を駆使して描いている。A余白を重んじる水墨画の構図をとっている。B写実を通り越した写意画に禅味が加わっている。C「画の六法」が主唱する気韻生動に富んでいる。D画技を超えた心魂の芸術に昇華させている、ことなどである。減筆体というのは、中国南宋時代に発案された技法で、画家粱楷がもっとも得意とした。筆数を極端に減らして、対象の真を捉える法で、室町時代に粱楷の作品が多数舶載され、禅僧らが手本とした。武蔵も減筆体を自家薬籠中のものとしていることが解る。Cの気韻生動は画が生き生きしている、精神性があるといった意味に使われるが、武蔵画はその真骨頂を発揮している。Dの心魂の芸術とは武蔵画特有のものだ。恩人で藩主の友情と突然の死、そして自らの老いと病から死を悟り、武蔵は一筆一筆精魂こめて筆を執った。
 武蔵画の成立と性格からまとめて言えることは、「個」を大事にし、「個」を磨きに磨いた一人の人間像が浮かんでくる。前半生は剣人として奥義を極め、対象への肉眼、心眼での観察力を生かして、後半生は画人として道を極めた史上稀な哲人でもあったと言えるだろう。画業への厳しさは作家吉川英治が調べた武蔵の達磨図や花鳥画の未完成で反古となった沢山の書き損じが証明している。はじめに触れたように、剣の人だから後世に残る絵が描けたのではなく、晩年になって、剣を捨て、画人として画業に四つに取り組んだからこそ偉業を成し遂げたのである。自らの死を直前にして霊巌洞に籠り、剣人としての遺書代わりに『五輪書』を書き残し、画人としての遺書代わりに「心魂の画」を描き残した。武蔵の人生そのものが二刀流であったのである。