ルネサンスにおけるデスコ・ダ・パルト(誕生盆)の位相
 2003年度卒論要約
名和野朋子 
(29951025)

はじめに
 デスコ・ダ・パルト(以下デスコと略す)は中世末期から17世紀の初期にかけてトスカーナ地方で流行した儀礼用の木製の盆である。円形、もしくは多角形で、産出場面、寓話や神話などの絵画や紋章が盆の表裏に描かれている。産婦の父親、夫、親戚の男性から贈答されたり、伝承品として受け継ぐことがあった。
 デスコは主に祝品や飲料などを運ぶ実用品として使用され、その他、装飾品として私室に飾られたり、ゲーム盤の絵柄を施したものは娯楽品として使用されていた。今日まで、「実用品」「装飾品」といった側面、もしくは「私的に受容された」という枠組みの中にデスコが置かれていた。本論ではそのような枠組みを外すために、その特異性をあげ、多様に受容されていた状況を明らかにする。

第1章  15世紀フィレンツェの出産をとりまく状況
 デスコが流行した15世紀のフィレンツェでは、ペストの影響もあり出産への関心は高まっていた。しかしその環境は悪く、迷信、私的見地に基づいた医療の施行や劣悪な衛生環境により、新生児と産婦の死亡率が高かった。このような環境の中、安産への関心は出産の政治的、経済的な付加価値も手伝い、より高まっていった。
 迷信的なものに懐疑的な男性と比べ、妊娠、出産をひかえた女性たちは、「童貞の少年に言葉を唱えさせ、文字を書いた帯を肌にあてて締めさせる」「軟膏をおなかに塗る」といった迷信的な行為に頼るのが主であった。

第2章  護符的な図像について
 デスコに描かれる、安産、多産の護符的な図像の起源を、古代よりの異教的な伝承や秘儀にたどることができる。男児の図像が描かれたデスコの珊瑚の首飾りは、子供を邪悪なものから遠ざけるための護符として信じられていた。また、男児像が持つ芥子の胞子嚢の図像は多産を象徴する。イタチについても同様である。イタチは安産のお守りとして受容されており、その頭部を模したアクセサリーが流行し毛皮止めに使用されていた。
 デスコに描き込まれたこれらの護符的な図像は、その中で装飾性を損なうことなく、しかし存在を強調している。女性やその家族が妊娠、出産へのより強い影響力を期待してデスコを受容していたことがうかがえる。

第3章  「視覚の呪術的効力」とデスコとの関り 
 ルネサンスの人々が信じていた「視覚の呪術的効果」とデスコの図像との関わりは、デスコが内包する「呪術的な装置」としての側面を明らかにする。レオン・バッティスタ・アルベルティに「見たものが妊娠と子供の将来の容姿に大きく影響する」との記述がある。アンブローズ・パレは「女性は妊娠中に怪物などのようなものを見たり想像したりしないように」と述べている。
 視覚や想像から侵入するイメージが出産や子供の容姿をコントロールするといった事実は、出産をコントロールするための図像を求めることに繋がるだろう。両親らの願望の表出そのものが、デスコに描かれた男児の図像ではないだろうかと推測する。
第4章  凝り返される男児像 
 デスコに描かれる男児は、視覚からの影響力を配慮し、望むべきものを身近に置きたいという願望を満たすものであった。一様に、肉付きの良い体躯、金の巻髪といった端麗な容姿をしている。構成においても非常に類似した作品が見られ、繰り返される男児像はデスコの図像の特異性を強調するものである。定型化したともいえる男児像の主題の繰り返しは、男児誕生を願う社会状況を表出したといえるだろう。
第5章  カッソーネ、トンドとの比較 
 同時代のトスカーナにおいて、デスコと共に「私的」に受容されてきたカッソーネは、デスコと同じく婚礼用の家具である。その主な相違は図像にある。羽目板に描かれる図像の主題は貞淑や服従を主とし、男性側の結婚への思惑が強く入っている。
 デスコと同じく円形絵画として形態が類似しているトンドは、私的な絵画として私邸の中で受容されていた。その図像や受容方法をみるとデスコとの類似はあるものの、デスコに盛り込まれた異教的な図像をそこにみることはできない。「私的」という枠組みでは定義できないデスコの特異性がうかがえる。
終わりに
 本論ではとりあげることができなかったが、願望の表出といったものだけでなく、デスコにはさらに「文字の呪術性」や「パロディー」など多様な主題やモチーフが描かれている。このように、「私的」「実用」「風俗の繁栄」といった一側面では、デスコを他の美術作品と並置できない。その多様な位相にみる特異性は際立っている。また、「私的」「実用」という美術史の中で周縁的に捉えられてきた分野に光をあてることで、ルネサンス絵画のより鮮明な様相をみることができると考える。デスコの受容や機能の多様性を読み解くことにより、「中心」「周縁」といった二元論的な結論ではない、相補にも似た関係が導き出されるのではないだろうか。