序 ミシェル・フーコーがベラスケス作『ラス・メニーナス』に見出した、古典主義時代に特徴的な表象の定義に対し、その定義であるところの表象の自立がなぜその時代に登場したのかという疑問を提示し、その答えを見出すため今一度『ラス・メニーナス』を分析し問い直すことにより、この問題に向き合うことを述べる。
1.ベラスケス 絵画の描かれた背景を探るためにベラスケスの生い立ちについて述べる。ベラスケスは、下級貴族の身分であり、その生業とするところは封建主義時代において貴族としては免税を認められない画家という低い地位にあったこと、しかし、師であり岳父であるパロミーノを通じオリバーレス伯に見出され、宮廷画家に就くこと、そして、オリバーレスによる金融、財政の大改革の下、リベラルで革新的な環境に身をおいていたことについて述べる。
2.バロック いわば平民の地位にあったベラスケスが、セビリアで触れた新しい時代の空気とその影響について参考とするため、バロックという時代背景について述べる。コペルニクスの地動説の受容により生じた新しい世界観の認識と、風景画の登場について、宗教改革に対し反宗教改革のプロパガンダのために登場した、教皇をパトロンとする新しい絵画様式の登場について述べる。
3.隠された主題 『ラス・メニーナス』を分析し直すことにより、自律した表象が描かれた背景を探る。王女マルガリータに注目することにより浮かび上がる構図と、国王夫妻の映る鏡に注目することにより浮かぶ上がる構図について明らかにし、両者の中心線が画面全体の中心線に関して対称的であることを指摘する。次に、画面の中心線に注目することにより浮かび上がる構図を明らかにし、登場人物たちが二人一組で登場していること、更に片方の人物が画面正面を見ているのに対し、一方の人物が画面の描かれている画面の内側に関心を払っていることを指摘する。この対照的な視線の分配の意味は、画面の中心線に関して対称的に配置されている扉に立つ人物と鏡により、見るものと見られるものが象徴されることにより集約されると主張する。この、見るものと見られるものを、この絵画の隠された主題であると主張し、その意味するところのものについて、鏡の上に掲げられた『ミネルヴァとアラクネ』と『アポロとマルシュアス』を主題とする二枚の絵画から推測する。二枚の絵画は、共に神と人との芸術における競技を描いていること、更に前者において人間が勝利し、後者においては神が勝利していることを指摘し、神と人間との対等な関係を暗示しているのではないかと主張する。そして、見るものと見られるものという隠された構図には、神と対等の地位で芸術を競い合う王家という意味があるのではないかと主張する。
4.世界観の変容 フーコーの指摘した自律した表象が、先に述べられた、隠された主題を追求したことの結果であると主張し、この目的が自律した表象に昇華した原因を、世界観の変容の中に探る。問題点が神と人間の関係にあるため、宗教上の世界観の変容に注目する。まず、プラトン的な世界観が、アリストテレスによりカトリック神学の基本的な視点へと昇華することを延べ、その世界観が、目に見える存在を影と見なす事からも分かるように、個別的な存在に価値を見出していなかったことを指摘する。次に、十字軍の遠征によりアリストテレス哲学が西欧世界に持ち込まれ、受容されていったことを延べ、その世界観がプラトンのそれと異なり、目に見える、個別的な存在者に形相を見出していたこと、延いてはこれらを対象化し理性的に把握する、思考のあり方の可能性を開いたことを指摘する。そして、15世紀に成立を見せた「線遠近法」の登場により、世界が合理的に構成されていることを確認することが可能となったことから、目に見える存在に形相を見出すアリストテレス的世界観が確固たる地位を得たと主張する。そして、この世界観が当為の事実として一般的に受け容られたのが、16世紀にコペルニクスにより唱えられた「地動説」が受け容れられた、17世紀バロック期であると主張する。その結果、ベラスケスは、人間が対象となる事物を、自らも含め客観的な対象として把握することが可能であること認識し、さらには見ると同時に見られるという視点から、同時にそれを神の視点と重ね合わせ、この隠された主題を自律した表象として描いたのではないかと主張する。
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